ふるさと物語 24 天保の百姓一揆

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

「ふるさと物語」【24】〈昭和39年12月5日発行「広報しわ」(第113号)〉

天保の百姓一揆

前号で述べた天保の凶作にもかかわらず、税金は益々重くなる一方であった。こらえきれなくなった農民達はついに立上がった。
時に天保七年十一月の初旬。まず彦部・大巻・長岡の農民が決起し、惣門の守備を破って一気に中の橋までおしよせた。驚いた藩では農民の願いをきき入れ、二十六日までに回答するといったので一応帰村した。
ところが廿一日の夜になって今度は日詰附近から西根にかけての農民が盛岡をめざしておしよせた。藩では家老の戸沢駿河が見るまえまできて、前と同じことを約束したので帰村した。
しかるに約束の廿六日になっても何の回答もない。怒るのはあたりまえである。くわやかまをかますに入れてせおった農民達は、ほら貝をふきながら惣門をめざして一団となって進んだ。
これをみた藩では四方に分れていた武士たちを惣門に集めて防備を固めた。農民達は梁川橋で夜を明かし、翌朝早々惣門に向っておしよせたが、途中で急に隊を三手に分け、あっという間に盛岡へ侵入して中の橋ぎわまでおし詰めてしまった。これは農民側の作戦勝ちであった。
藩では中の橋ぎわに鉄砲隊を配置し、橋に足をかけた者は一人残さず打ち殺すといきまいたが、農民達は意外にも冷静であった。約束の証文をもらわぬうちは帰らないといって、中の橋ぎわにすわりこんだまま三日もうごかない。初め農民の数は千数百人であったが、日ごとに増す一方でいつ情勢が急変するかわからない有様であったから、藩では主席家老の毛馬内典膳が自ら出て、今度は必ず約束を守るからといって誓約書を出した。そこで農民達は帰村の途についたが、その途中、高田・郡山・彦部などで日ごろうらんでいた財産家や肝入(村長)の家を打ちこわして解散した。この一揆によって役人達も目をさましたらしいが、おそろしいのは大衆のことを考えない政治家である。
--佐藤 正雄(故人)---

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