ふるさと物語 26 酒を造る人々

広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

「ふるさと物語」【26】〈昭和40年4月5日発行「広報しわ」(第117号)〉

酒を造る人々

のんべい族の歴史は非常に古い。
赤石の五郎沼附近からはじ器とよばれる土器の杯が出土しているが、これは平泉藤原氏から分家してこの地に住んでいた樋爪一族の使用したものであろう。この杯に酒をそそぐと、シューンと酒のしみこむ音がしてなかなか妙である。当時の人々の風流なのみっぷりが偲(しの)ばれて面白い。
江戸時代になると清酒を造る技術も発達し、紫波地方にも酒造業者があらわれるようになった。万治四年(一六六一)の調査によると紫波郡の造酒屋は郡山の二軒だけであったが、二十年後の元和元年には、郡山十軒、上平沢一軒、佐比内一軒の合計十二軒となって六倍の増加率をみせている。その後郡山の三軒は廃業しているが、宝暦の頃の酒造石高は、下町の助十郎(百石)、同久兵衛(二百石)、日詰町の善四郎(三百石)、同権右衛門(三百石)、同与兵衛(二百五十石)、同権十郎(二百石)、同庄太郎(百石)、上平沢の権兵衛(百五十石)、佐比内の市十郎(百五十石)となっており、紫波町関係だけで千七百五十石の醸造が認可されていた。しかし実際の酒造高は三千石を越えるものであったらしい。
一般に酒屋はもうかる商売だと考えられているが、実際はどうであったろうか。当時の米価をもとにして井筒屋権右衛門の内幕をさぐってみよう。同氏の実際醸造高は六百石であったが、この収支計算を現在の金額に換算してみると次の通りである。
一、収入 二三一二万円
内訳
二二一六万円(酒六百石の売上代)
九六万円(酒粕・米糠の売却代)
一、支出 一五五三万円
内訳
一〇七九万円(原料白米代)
二三〇万円(税金)
三二万円(飯米代)
七二万円(たきぎ代)
四六万円(杜氏給料)
九八万円(諸経費)
一、純益 七五九万円
即ち投下資本に対して五割近い利廻りとなるから確かにもうかる商売であったわけである。
事実これらの人々は酒造によって財をなしている。なお、清酒一升の価格は今の金額にして三六九円に当る勘定となるがうらやましい限りである。
当時造り酒屋の店頭には、箒と称して杉の葉をたばねたものを縄で釣り下げる習慣であった。
酒屋の店印ともいうべきもので、酒屋一軒を箒一本とも称した。
最初杜氏は大阪からきたが、やがて地元にも酒造技術が広まるようになった。これが後に南部杜氏を生む要因となったのです。
−−佐藤 正雄(故人)−−−

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