ふるさと物語 28 弁天堤由来記

広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

「ふるさと物語」【28】〈昭和40年7月10日発行「広報しわ」(第120号)〉

弁天堤由来記

河東の大巻から長岡にかけての地帯は、本町のうちでも水源に最も恵まれない所である。
このため長い間天水や沢水だけに頼って水田耕作がなされてきたのが江戸時代も寛文の頃(約三百年前)になると、大巻、星山、犬吠森、長岡、北田、遠山等の各地に溜池が造られるようになった。中でも代表的なのは大巻の大堤(後の弁天堤)である。
大堤は大巻村玉根の治兵衛等の願出により、寛文三年に藩の直営事業として築かれたもので、紫波郡と大巻地区から数百人の農民を動員して施行された。その後更に拡張工事が行われたが、天水の溜池であるため日照りの年には尚十分な用水が得られなかった。このため元禄五年には再び藩営工事として用水堤の開さく工事が行われた。これは赤沢村白山権現前の落合川より取入れる新堰で延長三千二百五十間(約六・五キロ)に及ぶ規模のものであったが、田植時期を控えての突貫工事であったため、紫波郡下はもとより岩手郡の一部からも義務人夫を徴用してわずか四日間で完了している。
この溜池には今一つの欠陥があった。洪水の度に堤が決壊したからである。しかし当時の土木技術ではどうにもならなかったらしい。
そこで守護の神として弁天様が登場する。元禄十二年九月のことである。この頃大巻村の一部は藩主重直の息女光源院の知行地であったが、度々の決壊に農民が苦しんでいることを知った同女は、溜池の中島に五尺四面の堂宇を建て、ここに江の島の弁財天を勧請して守護神としたのである。同時に弁財天の像や渡舟等も奉納され、後に社領として五石を寄進している。世に弁天堤と称されるようになったのはこれからのことである。建立の翌年には藩主も参拝され、祭祀料として、御神酒米一駄片馬と銭五百貫文を下賜された。
なおこの堤の築造に功労のあった玉根家は、代々この社の別当をつとめて今日に及んでいる。
−−佐藤 正雄(故人)−−−

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