ふるさと物語 44 赤沢史話(1)

「ふるさと物語」【44】〈昭和42年1月10日発行「広報しわ」(第138)〉

広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

赤沢史話(1)

赤沢には、落人とか金山働きの子孫といわれる家柄のあるのが特長です。
先ず落人説をみましょう。菅原道真(みちざね)が九州の太宰府(だざいふ)に流された時その遺児が山屋へのがれてきたという節、白山別当の先祖遠山右近師重(うこんもろしげ)は、亘理権太夫経清(わたりごんだゆうつねきよ)の親族であったが経清が厨川で斬られたのち、伯父(おじ)のアミダ堂住職をたよって赤沢へきたとする説、源義経が平泉からのがれて赤沢へきたとする説。半田五右衛門はもと九戸政実(まさざね)の家臣であったが、九戸没落の時遺児亀千代をつれて山屋峠へ落ちのびたという説。船窪中務康長(ふなくぼちゅうむやすなが)が、主従二十四人で舟久保へのがれてきたとする説。まだあるかも知れません。
このうち、船窪氏を除く外はみな子孫と称する家が残っています。中にはかなり疑わしいものもあるようです。いつの頃か、藤原某という田舎学者がいて、こじつけの歴史をでっちあげているから注意を要します。ただ、山にかこまれた村であったため、人目を忍んで落ちのびてくる人のあったことは事実です。懸下(かけした)茂左衛門がその例です。
彼はもと、遠野在住の南部家臣であったが、一六二六年、罪を得て郎従と共にこの地に落ち、百姓となっています。その時の郎従の子孫が、今でも及川・佐沼・佐々木等を名乗って残っています。昔の赤沢は、佐比内とならんで南部領の中でも有名な金の産地でした。女牛・繋・舟久保・香番・元沢・百沢・赤沢などの金山は、みな江戸時代に開発されたものです。
従って、金山で働いていてそのまま住みついた人も多いようです。荒屋敷家は砂金採集のために平泉から派遣されたといい、その後惣左右衛門の代には女牛金山の廃坑を再掘しています。
−−−佐藤 正雄(故人)−−−

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