ふるさと物語 45 赤沢史話(2)

「ふるさと物語」【45】〈昭和42年2月10日発行「広報しわ」(第139)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

赤沢史話(2)

藩政時代の赤沢は、赤沢・遠山・北田・舟久保・紫野・山屋の六か村に分かれていたが、いずれも山間部の村であるため、水田に恵まれないという弱点をもっていました。しかし、この人々は、山の木・野原の草・川の砂金等天然の資源を高度に利用する智恵と意欲をもっていたのです。

当時の山林は藩有が原則で個人所有は特別の外は認められませんでした。ただ、山守として藩の山を管理するとその手当として一定の範囲での伐採は認められていたし、許可を得て植林すると伐採の際に八割は植立人の取分にするという制度がありました。赤沢の人々は、この制度を利用して山林と結びつき薪や用材をきりだしては金銭とかえていました。

山林や野原の草も勝手には刈取りできなかったが、ただ、入合(いりあい)山といって村民共同の採草地だけは解放されていました。杉町山・漆山・大森山・横長根山・折壁峠・親倉山等がそれです。赤沢の人々は、ここに入込んで草を刈取り、これを飼料として馬の仔取(こと)りを行っていました。

嘉永頃の記録をみるとどの家でも二三頭が普通であり、中には火石沢の孫市のように七
八頭を飼う農家もあったし、荒屋敷助惣のような父馬(ちちば)の飼育をする者もありました。
当時馬一頭は米十俵位の値段であったから、副業としてはなかなか捨てがたい魅力でした。

赤沢川や山屋川の砂金も有力な収入源であり、明治の中頃まで採取が続いたといわれます。

採取した砂金は、竹製の砂金筒や鹿皮で作ったフクベに入れて郡山の井筒屋へ売りに行ったが、一旦ゴザの上に広げてから目方を計られたため、ゴザのきめに入った分だけ損をしたという話も残っています。

---佐藤 正雄(故人)---

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