ふるさと物語 46 『金山で栄えた村』佐比内史話(1)

「ふるさと物語」【46】〈昭和42年5月10日発行「広報しわ」(第142)〉

広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

『金山で栄えた村』佐比内史話(1)

山の多い佐比内の人々は、山の資源に依存し、これを利用しながら発展してきました。金の採掘もその一つです。佐比内の産金の歴史は古く、既に平泉藤原氏の頃からと考えられています。その頃は砂金の採取がもっぱらでしたが、やがて江戸時代の初期になると、山金の採掘も行われるようになりました。その第一人者として登場するのが丹波弥十郎ですが、彼の金山経営については既に述べたので省略します。
弥十郎の配下として経営に参画した人に北村三右衛門綱良があります。彼は、もと小田原北条氏の家臣であったが、主家の没落と共に藤沢(神奈川県)に潜んで漁師をしていました。それが、寛永の頃になって佐比内に移住し、弥十郎のもとで手代をつとめたといわれます。その子三右衛門方綱も父のあとを継いで金山師を志し、正保三年(一六四六)には平栗山、次いで慶安三年(一六五〇)には赤沢中金山を開発しました。また、承応四年(一六五五)には、朴山五枚平の廃坑を再掘するなど、小規模ではあるが金山経営に活躍しました。
山影家(横町)の初代九郎左衛門の弥十郎につかえたといわれます。同家は、稗貫郡瀬川城主山影中納言藤原為家の末裔と伝え、九郎左右衛門は初め伊勢の国に住したが弥十郎によって朴金山が開発された際、兄四人と共に佐比内に下って、金山稼業に従事したといわれます。寛永十二年(一六三五)頃、堀切兵衛という人がここの金山奉行を勤めていました。堀切氏の本家は、岩手郡堀切村にあり、四百石を給される身分でした。
兵衛は、その後、佐比内に土着して帰農したといい、中平堀切家がその後といわれます。その外、砥が崎の松坂氏や柏原氏も、朴金山に関係した人々の子孫といわれており、金山開発にともなって多くの人が来往したことを物語っています。
−−−佐藤 正雄(故人)−−−

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