ふるさと物語 49 『かくし念仏の話』志和の歴史(2)

「ふるさと物語」【49】〈昭和42年8月10日発行「広報しわ」(第145)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

『かくし念仏の話』志和の歴史(2)

今でも行われている「かくし念仏」は、160余年前に木村養庵によって伝えられたものです。
養庵は仙台領大沢辺の出身といわれます。京都に上って鍵屋流かくし念仏の家元に住みこみ、鍼灸の医術を学ぶかたわらかくし念仏の法義を伝授され、後に南部領へ入って布教しました。享保元年(1801)9月、養庵は志和稲荷に参詣の帰途、土舘村向町欣求庵(ごんぐあん)に一夜の宿をかりました。これが縁で向町の長兵衛・上平沢村虚空蔵の佐七・土舘村御堂の儀兵衛の3人を知ることとなり、翌晩は滝名川御堂川原の木立の中に忍んで3人を相手にかくし念仏の法談をしました。
それに感動した3人は、しばらく滞在して法義を伝授してくれるように頼みました。
養庵は、片寄村朴田の喜八方に寄食し、同家の土蔵をアジトとして布教することになりましたが、間もなく妻子も呼び寄せて、改めて朴田の別家山口の五郎八方に寄留しました。
こうして本格的な布教活動に入ったが、そのうち次第に信者もふえるようになり、享和3年には、まず朴田の喜八・御堂の儀兵衛・南伝法寺村高木の八助の3人が奥伝を受けて善師となりました。
後に、紫波・盛岡・岩手・稗貫・和賀・下閉伊方面に広まったかくし念仏の流派は、いずれもこの3人の系統から分派したものです。
かくし念仏は、真言密教と浄土真宗の教義がまじった民間仏教とみられますが、秘密のうちに行われたため、藩の役人は当時禁制のキリシタンと誤解するようになりました。
このため翌文化元年には、養庵一家は片寄から追放されてしまいました。
後には、御堂の儀兵衛と日当(ひなた)の清兵衛も捕えられ、二人共八戸の牢屋で死亡しました。
−−−佐藤 正雄(故人)−−−

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