ふるさと物語 50 『酒造の開拓者』江戸時代の人々(1)

「ふるさと物語」【50】〈昭和43年6月10日発行「広報しわ」(第155)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

『酒造の開拓者』江戸時代の人々(1)

江戸時代の中頃、当地方に定住して商業界に君臨したのは、近江系の商人でした。その草分けは、上平沢近江屋の初代村井権兵衛主元です。
権兵衛は、近江の国(滋賀県)高島郡大溝の出身で、本姓を小野といいました。彼は初め、盛岡紙町の村井新兵衛方にわらじをぬぎ、その親類分となって十年余りも逗留しました。小野の性を村井と改めたのはこの関係からです。
この間、木綿や小間物の行商をしながら、盛岡や日詰付近の村々を廻って歩きましたが、延宝5年(1677)には、年来見立てておいた上平沢の馬場に屋敷を求めて独立し、近江屋を号しました。
近江屋の営業内容は、造酒屋と質屋と呉服・雑貨等の販売の3本立てでしたが、中でも特筆すべきは酒造りです。当時、この地方では酒造りといえば濁酒だけに限られていました。ところが、初代権兵衛は、先進地の関西から杜氏を招いて清酒の醸造技術を導入したのです。しかも、彼は、酒造高のうち約三分の一は近在の農家に分割して醸造を委託し、杜氏を巡回させて技術指導に当たらせるという方法をとりました。これが、やがて、この地方に南部杜氏の発祥をもたらす原因となったのです。
初代権兵衛には実子がなかったので、兄善五郎の二男伊兵衛、四男清助、及び義弟の二男左兵衛の三人を迎えて養子としましたが、伊兵衛はのちに独立して京都鍵屋と日詰の井筒屋を創設し、清助と左兵衛は盛岡に分家して「紺印」(こんじるし)と「左印」(さじるし)の一家をおこしました。また、兄の長男善助も呼びよせ、数年見習いをさせたのち、盛岡に「善印」(ぜんじるし)の店を独立させました。これらの分家は、近江屋を中心として同族組合を構成し、独特の商法をもって南部財界に君臨するようになったが、わずか十余年の間に、これだけの勢力基盤を築いた権兵衛の手腕は驚異です。
元録2年、48歳で歿。二日町本誓寺に葬る。
−−−佐藤 正雄(故人)−−−

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