ふるさと物語 51 『小野権右衛門唯貞』江戸時代の人々(2)

「ふるさと物語」【51】〈昭和43年7月10日発行「広報しわ」(第156)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

『小野権右衛門唯貞』江戸時代の人々(2)

唯貞は、近江の国(滋賀県)高島郡大溝の井筒屋二代小野善五郎の二男として生まれました。
初め志和に下って伯父村井権兵衛主元の養子となったが、その歿後、跡を継いで近江屋の二代目となりました。しかし、翌元録3年(1690)には隠居して家業は養子の奉明に譲り自分は日詰町へ出て井筒屋を創立すると共に、更に京都へ上って鍵屋をおこしました。
こうして、京都の鍵屋は本店として権右衛門が直轄し、日詰の井筒屋は支店として支配人に管理させるという経営方式がとられることになりました。
日詰の井筒屋は「郡印」(こおりじるし)の略称で呼ばれたが、この店の職制には三役としての老分役(顧問)・支配人・常勤番頭があり、その下に番頭・手代(てだい)・丁稚(でっち)・小僧(こぞう)の階級がありました。日詰や上平沢の村谷氏は、支配人であった村谷彦兵衛(近江の国の産)の子孫です。
井筒屋では、酒・味噌の製造販売の外に、関西から木綿・古手・綿・雑貨(数十種)などを仕入れてきてデパート的な経営を行いました。
また、質屋も兼業しました。関西での仕入れは鍵屋を中心にやられたが、これらの品物は、日本海を廻って秋田−生保内−雫石−盛岡−日詰のコースと、太平洋を廻って石巻から北上川の舟運を利用するコースの二方面から輸送されました。従って、当時としては全く驚異的な営業方法でした。
井筒屋の出現によって日詰町は、従来の宿場町から地方の商業都市へと飛躍的に発展したし、今まで自給自足の経済に閉じこもっていた近在の村々も、これに刺激されて貨幣経済に移っていくようになりました。この意味において唯貞の業績は高く評価されるべきでありましょう。
享保17年(1732)10月3日歿。法名は釈慶友。
その後、小野一族と奉公人別家は領内の各地に分布して一大財閥を形成したが、彼らは慶友の命日には全員集って報恩の念を深めるのを常としました。
−−−佐藤 正雄(故人)−−−

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