ふるさと物語 4 安部道/紫波町

ふるさと物語 4 安部道/紫波町

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

「ふるさと物語(4)」〈昭和37年6月5日発行「広報しわ」(第83号)掲載〉

安部道

本町の西部山麓には、今でも安部道といわれる古い道あとが処々に残っている。殊にも片寄のものは両側に石礫を積み重ねて明瞭な道筋を残しており、土舘や上松本の一部にもその跡をみることができる。郷土にとって貴重な道路遺跡である。
この道は安部貞任の頃(九百年程前)、衣川と厨川を結ぶ主要な交通路であったと伝えられているが、その道筋にそうて縄文土器やはじ器、すえ器などの遺跡が分布していることや古墳群があることなどからみて、かなり古い時代からのものと思われる。橋をかける技術が発達しない大昔には、川を渡る便宜上自然と道路は山手を通るようになったのである。飛躍して考えることが許されるなら、この道は既にエゾとよばれる人々の頃からあったものと思われるし、さらに田村麻呂の頃胆沢城と志波城を結んだ陸路もこれではなかったかという疑問もわいてくる。日本後記という本に『志波城は胆沢郡から百六十二里離れている。』と書いてあるが、これは今の里程で二十七里に当る。現在の国道では胆沢城と日詰の間は十一里余であるからこの里程と合わない。どこかを遠く廻ったものにちがいない。日本後記では『山や谷がけわしくて行き帰りに困難が多い。』といっている。どうしても山手を廻っていたと考えたい。その点、安部道ならだいたい二十七里と合致するが果たして〃であろうか。(詳しい考証は略す。)
ともあれこの安部道は、中央の公道ができるまでは、先進地の文化を本町に導入する重要なルートであったとみたい。いうならば、それは当時の西部開発道路でもあったのだ。従って本町の水田開発は、志波城を中心とした地域と同時に、この安部道にそうて西部の山麓に始まり、やがて東へ伸びていったのである。忘れてはならない道ではある。
−−−佐藤 正雄(故人)−−−

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