まちのプロフィール/紫波町
町の概要
町のあらまし
紫波町は昭和30 年に1 町8 カ村が合併し誕生しました。岩手県のほぼ中央、盛岡市と花巻市の中間に位置し、北上川が中央を流れ、東は北上高地、西は奥羽山脈までの総面積238.98 平方キロメートルの町です。国道4 号など6 本の幹線が町を南北に走り、インターチェンジや3 つの駅があるなど、交通の便に恵まれています。
町は、大きく分けて中央部、東部、西部の各地域に区分されます。町の中央部は、国道4 号沿いの住宅地を除くと、平地に農地が広がり、全国有数の生産量を誇るもち米、生産量県内1 位のそばや麦、そして各種野菜
が作られています。東部ではりんごやぶどう、西部では西洋梨などのフルーツ栽培も盛んです。
町の歴史
紫波町には、縄文時代から先住民が集落をつくり生活を営んでいましたが、9 世紀前半に坂上田村麻呂を中心とする都からの軍隊によって攻められ、斯波郡(紫波郡)として治められるようになりました。
10 世紀後半には、安倍氏が紫波郡を治めますが、安倍氏は源氏によって滅ぼされてしまいます。その後、平泉の藤原氏にゆかりのある樋爪氏が住み、この地を治めました。また、藤原氏や樋爪氏を攻め北上する源頼朝は、厨川を目指す途中、軍勢を紫波町の陣ヶ岡に集結させ、一週間宿営したと伝えられています。
鎌倉時代になると、足利氏が紫波を治め、後に斯波氏と改め高水寺城を築城。城跡は現在、桜の名所城山公園として親しまれています。このころ、是信房という親鸞の弟子の僧侶が紫波町を訪れ、浄土真宗の教えを広めました。1589 年に斯波氏は滅ぼされ、明治初めまで南部氏が支配しました。
江戸時代の1655 年、八戸藩が分立して志和地区は八戸領となります。1678 年には、近江商人の村井権兵衛が志和で酒造りを始め、その当時の最高技術「池田流」の杜氏を大阪から招き、南部杜氏の源流となる志和近江屋を発足させました。その後、全国の酒造量が急激に増大し、醸造を委託されていた引酒屋といわれる農家が、やがてその高度な技術を買われ仙台などに招かれ「南部杜氏」集団の誕生につながりました。
明治時代の1879 年には、紫波郡役所が設けられ、紫波町地域は16 の戸長役場区域に分割。1889 年の町村制施行とともに、日詰町、古館、水分、志和、赤石、彦部、佐比内、赤沢、長岡村の1 町8 カ村となりました。その後、1955年に1 町8 カ村が合併し、現在の紫波町が誕生しました。
町名の由来
斯波氏最後の当主、斯波孫三郎詮直(しばまごさぶろうあきなお)が「今日よりは紫波と名付けんこの川の石にうつ波紫に似て」の句を詠んだことが「紫波」の名の由来と伝えられています。
町民憲章
わたくしたちの紫波町は、北上川のゆたかな流れに恵まれた自然の風土と、先人のたゆまぬ努力によって発展してきました。
わたくしたちは、ここに自らの責任と誇りをもち、すすんで希望にみちた郷土を築くため、全町民の願いをこめてこの憲章を定めます。
1 健康につとめ、明るいまちをつくりましょう。
1 自然を愛し、美しいまちをつくりましょう。
1 きまりを守り、安全なまちをつくりましょう。
1 教養を高め、心ゆたかなまちをつくりましょう。
1 あたたかく交わり、住みよいまちをつくりましょう。
(1975(昭和50)年 制定)
町章
かたかなで紫波町の「シ」を図案化したもので、田と畑を表し、町勢の基盤である産業の進展を象徴しています。
町のシンボル
町の花 ききょう
秋の七草として親しまれてきたききょう。夏から秋にかけて野に咲き、多年草で観賞用としても人気があります。
そしてその花は紫波を表す紫です。
町の鳥 つばめ
遠く東南アジアから渡ってくるつばめ。私たちのまわりで巣作りをし、こどもを育てる姿は見る人の心を和ませ、田園風景に溶け込んでいます。
町の木 けやき
紫波の山だけでなく市街地でも見られるけやき。建築材にも使用されます。
大空に広がる雄大な姿は、紫波の未来を表す象徴となっています。
町民歌
楽譜のダウンロードはこちら (PDFファイル: 56.7KB)
紫波町役場マップ
紫波町役場 紫波町紫波中央駅前二丁目3番地1
町へのアクセス
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