ふるさと物語 34 日詰史話(1)/紫波町

ふるさと物語 34 日詰史話(1)/紫波町

「ふるさと物語」【34】〈昭和41年3月10日発行「広報しわ」(第128号)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物
について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますので
ご了承願います。

日詰史話(1)

日詰町を最初に開いたのは桜屋(当主阿部省太郎)だという。同家はもと桜町に住んでいたが、文明の頃(約五百年前)斯波の殿様の命で今の習町に移住し、ここを拠点に町の開発に当ったと伝えられる。初め二千坪の地を拝領して屋敷を構えたが殿鮫の居城(城山)に背を向けるのは畏れ多いというので北向(なりゃ向)に建てたそうだ。それでこの辺を「なりゃ町」と呼ぶようになったという。同家は後に造酒屋と質屋を営んで大をなし、殿様などの泊る本陣にも指定された家柄である。
江戸時代に入ると宿場の町として往来の人でにぎわうようになったが、やがて井筒屋・美濃屋・伊勢屋などの領外商人が登場するに及んで、商業の町として栄えるようになる。
井筒屋は近江(滋賀県)の産。志和の村井権兵衛から分家して代々権右衛門を名乗った。
家号を郡印と称し、古着呉服塩茶綿雑貨などの販売と造酒屋の経営によって大いに財をなし、領内でも屈指の商人に成上がった。その所有する土地は、近在にわたって十数町歩に及んでいる。店は今の警察署から鈴徳菓子店のあたりに及ぶ広大なものであったが、ここで働く奉行人は常時百数十人を数えたという。藩に対して度々多額の御用金を納めた功により、苗字を許されて小野を称した。志賀理和気社の社殿を造営したり、祭具を奉納したり、凶作の年には救援の米や銭を出すなど地方のためにも少なからぬ尽力をしたが、しかし金銭関係をめぐっての反感も多かったらしい。安政六年には立退きを命ぜられて京都へ移住した。
---佐藤 正雄(故人)---

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