ふるさと物語 57 『渡辺寿童』江戸時代の人々(8)/紫波町

ふるさと物語 57 『渡辺寿童』江戸時代の人々(8)/紫波町

「ふるさと物語」【57】〈昭和44年1月10日発行「広報しわ」(第162)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

『渡辺 寿童』江戸時代の人々(8)

渡辺寿童は、日詰町の町医者で本名を本蔵といい、別に鶯郷と号しました。
渡辺氏は、大迫渡辺氏の分流と伝えられます。その子孫はいつのころからか佐比内の横町に居住していましたが、藤兵衛の子重庵の時になって医術を家業とするようになりました。重庵の子譲庵も大迫の小田島玄秀と高橋恭庵について医術を学びましたが、のちに日詰町に移って町医を開業しました。その子の芳庵は、京都の香川右膳の門に入って医学を修め、更に伊藤東所(仁斎の孫)について儒学を学んでいます。
このように、渡辺家は代々医術を業としてきましたが、芳庵の長男として生まれた寿童も、盛岡へ出て鈴木大助の門にはいり、医学と儒学を修業しました。また、漢学と算学にも長じていました。そのため、医業のかたわら、家塾を開いて町内子弟の教育にも当たりましたが、熱心さの余り時には夜半にまで及ぶこともあったといわれています。
明治39年2月14日没。日詰来迎寺に顕彰碑があります。
遠山 弘道
遠山弘道は、寛政8年(1796)柴野に生まれました。
その生家は、中世以来、白山権現社の別当をつとめてきましたが江戸時代の初期、風巌の代に、修験道に転じて一院を創立し、慈徳院と号しました。それ以来、代々修験道を通して地方の教化に当たると共に、そのかたわら家塾を開いて郷党子弟の指導にも当たってきました。
弘道は、このような家風の中に生まれましたが、幼少にして父を失ったため、もっぱら伯父貞観(志和稲荷別当)の教養によって人となりました。長じて慈徳院と学塾のあとを継ぎましたが学識が豊富で特に算法にあかるかったところから、門弟も多かったといわれます。
文久元年10月21日、66歳で没しました。
−−−佐藤 正雄(故人)−−−

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