ふるさと物語 91 『1田植踊』郷土芸能由来記(1)/紫波町

ふるさと物語 91 『1田植踊』郷土芸能由来記(1)/紫波町

「ふるさと物語」【91】〈昭和47年3月10日発行「広報しわ」(第199)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

『1 田植踊 』郷土芸能由来記(1)

田植踊は、古くは冬の娯楽の随一であり、純粋な農民芸能として大衆に親しまれてきました従って、踊り仲間も少なくなったかと思われますが、そのうち、明治以前からの存在が伝えられているものに、彦部・山屋・南伝法寺・遠山のそれがあります。
彦部の田植踊りは、鎌倉時代の前期、是信房がこの地に本誓寺を建てて布教にあたった際、人集めの手段として京都の田楽を普及したのが始まりだと伝えられていますが、別に明証があるわけではありません。五拍子であることが特徴であり、中に車踊りのあるのも独得であります。
山屋の田植踊りは、平泉藤原氏が栄えたころ、砂金採取のために来住した京都出身者によって伝えられたといわれています。しかし、これとても真偽のほどは定かでありません。
南伝法寺のそれは、宇南家を座元として行なわれたもので、文久三年(1863)正月に、太田の三合の伊藤雅楽流から同家の要蔵に相伝されたものです。但し、同地の久保屋敷家には、文政七年(1824)正月7日書き留めの「田植口上覚」が伝えられているから、同地には、これ以前から踊り仲間があったものと思われます。
遠山のそれについては、明治以前からあったと伝えられるだけで記録的に徴すべきものはありません。
この外、現在行なわれているものとして佐比内の田植踊りがありますが、その由来については明らかではありません。
2 太神楽
太神楽(だいかぐら)は、田植踊りに付属して行なわれる場合と単独に踊り仲間を構成して行なわれる場合と二様がありましたが、後者の例としては、南日詰(京田)・片寄(南坂)・彦部の三グループがあります。
このうち、京田連中は稗貫郡新堀村の六角家から伝えられたといい、その京田連中から伝授されたのが南坂連中であるといわれます。また、彦部連中の師匠については不明ですが、流派的には小屋敷流のうちの片岸流とされています。
−−−佐藤 正雄(故人)−−−

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