ふるさと物語 99 明治の百姓一揆/紫波町

ふるさと物語 99 明治の百姓一揆/紫波町

「ふるさと物語」【99】〈昭和47年10月10日発行「広報しわ」(第207)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

明治の百姓一揆

明治四年十二月から翌年二、三月にかけて、旧八戸藩志和七ヵ村(上平沢・稲藤・上土舘・下土舘・北片寄・中片寄・下片寄)の農民が集団で強訴におよぶという事件がありました。

 この七ヵ村は、明治四年七月の廃藩まで引き続き八戸藩に属し、次いで八戸県の管轄するところとなりましたが、その後も、同年九月五日には弘前県の管轄となり、同月二十三日には青森県の管轄に置かれるというように、依然として他県の飛地をなしてきました。この事件はそのような時期に発生したものですが、その目的は、凶作続きで農民が困窮しているから、小役料を免除してほしいということにありました。この小役料は、従来、高百石について米二十二駄の割りで上納してきたものです。が、凶作続きで米価が高騰してきたところから、このままの割合で青森県に移管されては不利になるというので、はじめ八戸県志和出張所(残務整理のため十二月七日まで存続した)に対して免除か、さもなくば金納にしてほしいと訴願したがついに許可になりませんでした。そこで、青森県に出訴しようとしましたが、同県は遠距離にあるためらちがあかないと考え、もよりの盛岡県に嘆願して政治的に解決しようとはかりました。
 ここおにおいて、十二月七日の夜には七ヵ村の農民三百人ほどが集結して貝を吹きながら大いに気勢をあげ、翌八日には小役料免除の外八ヵ条からなる訴状をたずさえて大挙郡山町に押し寄せました。これに対して盛岡県では、役人を派遣して一応訴状を受理しました。そして、青森県当局と交渉に及びましたが、翌五年二月五日になってこの嘆願は全面的に却下されるに至りました。
 これを不満とした農民側では、同年三月、こんどは滞納中の年貢米約七百三十石の延期願を訴願しましたが、結局これも不許可となって目的を果たすことができませんでした。
 この事件に際して青森県では、盛岡県より出兵を請う予定で強硬に対しましたが、幸いにも暴動には至らずにすみました。そして、同年八月には、首謀者として中片寄村の庄兵衛と稲藤村の丑松が処分され、事件は落着しました。

−−−佐藤 正雄(故人)−−−

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