ふるさと物語 106 明治六年の小学校/紫波町

「ふるさと物語」【106】〈昭和48年5月10日発行「広報しわ」(第214)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

明治六年の小学校

明治五年の学制発布にともなって、紫波町地域に初めて小学校の設立をみたのは、翌六年のことでした。すなわち、この年、日詰・北日詰・升沢・長岡・栃内・山屋・彦部・赤沢の八校が創立されましたが、ことしは、それからかぞえてちょうど百年目に当たることになります。当時、政府の方針としては、人口六百人の地域をもって一小学区を構成し、一小学区について小学校一校を設置させるつもりでしたが、岩手県においては、まだ基準どうりの小学区を区画するまでには至りませんでした。そこで、とりあえず一村または二、三ヵ村の組合村で一校を設置することになりましたが、一村といっても、当時の村は、後の大字に当たる程度のものでしたから、そこで一校を設置するのは容易ではありませんでした。
そのため、初めは独立の校舎を建てるところまではいかず、日詰学校は来迎寺、北日詰学校は覚王寺、升沢学校は極楽寺、長岡学校は吉田玄仙宅、栃内学校は横沢久太宅、山屋学校は平舘作右衛門宅・彦部学校は正養寺、赤沢学校は池田治平宅というように、寺か民家を借用して開設されました。
学校の教師には、士族・神官・僧侶・医者あるいは農商で学識のある者が任用されました。日詰学校の渡辺寿堂(医者)・木村文吾(医者)、北日詰学校の岩動台橋(僧侶)・下河原定治(士族)、升沢学校の松岡鐐造(士族)・簡道吉(士族)・中里常機(神宮)、長岡学校の吉田玄仙(医者)、栃内学校の横沢久太(農)、山屋学校の平舘作右衛門(農)、彦部学校の石森教山(僧侶)、赤沢学校の遠山正衛(神宮)などのようにです。当時の教師には、上等教師・中等教師・下等教師・仮教師の四段階がありましたが、これらの人々はいずれも下等教師でその月給は二円五十銭でした。
次に、一ヵ月当たりの学校費を教師一人の学校についてみると、教師月給二円五十銭、小使月給一円五十銭、筆墨紙五十銭、薪炭油代一円、家賃一円の合計六円五十銭となっていますが、これらは授業料と寄付金によってまかなわれました。
−−−佐藤 正雄(故人)−−−

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