ふるさと物語 107 明治初年の改名と氏称/紫波町

「ふるさと物語」【107】〈昭和48年6月10日発行「広報しわ」(第215)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

明治初年の改名と氏称

明治二年十月には、これまでの大和・武蔵・出雲・若狭・甲斐などのような国名を名乗っていた者や、何兵衛・何左衛門・何右衛門・何助・何之丞・何之助・何太夫のような官職名を名乗っていた者は、すべて名前を改めるようにという布達がありました。このような名前、特に後者のような官職名を付した名前は、当時としてはごくありふれたものでしたから、これによって改名をしいられた者はけっして少なくなかったことでしょう。当地域の例でも、日詰の井筒屋権右衛門は権蔵、同町の幾久屋七郎兵衛は七郎平、二日町新田の村長長兵衛は長平、同町の副村長新兵衛は新平と改めています。兵衛を平の字に替えて同音としているのは、なかなかおもしろいではありませんか。この改名のねらいは、おそらく人心を新たにすることにあったのでしょうが、しかし、これによって迷惑をこうむった人も少なくなかったものと思われます。そのためでしょうか。翌三年には、早くもこのことは解除となっています。
明治三年九月には、平民も姓を称することが許されるようになりました。これによって、当地域においてもすべての人が姓をもつことになるのですが、次にその実際を明治五年の戸籍帳によってみてみましょう。まず、数の多いものについてみると、高橋の一七七戸を筆頭として、阿部の一七一戸、佐藤の一五一戸、佐々木の一〇四戸、藤原の八七戸の順となっています。それでは、当時の村別にみるとどうかというと、二日町新田では小川、高水寺では加藤、中島村では長谷川、陣ヶ岡村では水本、南伝法寺村では菅原、小屋敷村では佐藤、上松本村では鷹木、吉水村では菅川、下松本村では藤原、上平沢村では近藤、土舘村では鷹觜と阿部、片寄村では畠山、南日詰村では高橋と大沼と滝浦、北日詰村では北條、桜町村では長谷川、佐比内村では高橋と佐々木、彦部村と大巻村では佐藤、星山村では阿部と作山、犬吠森・草刈・北田の三ヵ村では阿部、東長岡村では工藤、山屋村では平舘が最も多くを占めておりますが、その他の村では特に多いという姓はみられません。
---佐藤 正雄(故人)---

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