ふるさと物語 116 『政治にたずさわる人々-明治初年の市長と村長-』近代人物脈(1)/紫波町

「ふるさと物語」【116】〈昭和49年3月10日発行「広報しわ」(第224)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

『政治にたずさわる人々-明治初年の市長と村長-』近代人物脈(1)

藩政時代には、村の長を肝入といい、町の長を検断といいましたが、明治三年二月になると、肝入は村長、検断は市長と改められるようになりました。
明治五年四月には、村長の選挙の手続きが定められました。それによると、村民の選挙によって適任者を選出したら、その者を任命されるよう村民一同の連名をもって県に出願することになっていますが、その願書のなかには、「本人の持高はどれだけで、読み書きや計算もでき、村中の者も帰服して故障もない人であるから、本人が任命されれば、村中責任をもって上納する」旨を記載するようになっています。村長の資格のほどが知られましょう。
この制度は明治五年六月まで続きましたが、その間において、当地域の市長・村長として活躍した人々をあげると、市長では日詰町の庄蔵と阿部善四郎、二日町の岡田儀三郎、下町の善九郎と菊池善右衛門、十日市町の甚七が知られていますし、村長では、日詰新田の内川亀治、二日町新田の小川長兵衛、桜町村の長谷川久七、北日詰村の与八と大沼喜作、犬渕村の菅原与平治、平沢村の斎藤久八、片寄村の熊谷勝三郎、土舘村の高田勘十郎、上平沢村の近藤甚内、稲藤村の伊藤長七、宮手村の村田勘喜治と谷地舘仁八、升沢村の竹原多蔵、上松本村の鷹木源蔵、小屋敷・吉水組合村の佐藤庄次郎、下松本の大坊幸三郎、南伝法寺村の菅原孫九郎、中島・陣ヶ岡組合村の長谷川万治、高水寺村の加藤源治郎、東西長岡組合村の藤原理八、遠山・北田組合村の阿部平三郎、山屋村の八重畑平十郎、紫野村の長吉と長右衛門、船久保村の徳十郎、赤沢村の弥平と梅沢勘四郎、草刈・犬吠森組合村の阿部久作、星山村の伊山久平、大巻村の森田忠平、彦部村の佐藤善十郎と石杜周蔵などがあります。このなかで名前だけの人は、まだ平民に氏を称することが許されていないころに就任した人々です。村長の大部分は、その村の旧家中から選ばれていますが、在職当時の業績については明らかではありません。
−−−佐藤 正雄(故人)−−−

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