ふるさと物語 126 『産業を振興する人々-梅沢勘四郎-』近代人物脈(11)/紫波町

「ふるさと物語」【126】〈昭和50年1月10日発行「広報しわ」(第234)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

『産業を振興する人々−梅沢勘四郎−』近代人物脈(11)

梅沢勘四郎は、天保五年三月、赤沢に生まれました。旧制赤沢村の村長・戸長・学務委員などを勤めた人物ですが、産業の面でも、石灰の肥効に着目して、その製造と普及のために活躍しておられます。
明治初年の肥料といえば、藩政時代に引き続いて「うまやごえ」が中心であり、金肥としてはわずかに「さかなかす」が用いられる程度で、無機質肥料の利用はまだ行われておりませんでした。ところが、明治三年に江刺県の役人が肥料として石灰を用いることを奨励したため、上閉伊郡宮守村でその製造が行われるようになりました。当時、「さかなかす」の価格が高かったためその利用は一部の上農階級に限られておりましたが、これに比較すると石灰は五分の一ぐらいの価格でしたから、次第に各地で利用をみるようになりつつありました。
このような情勢のなかで、勘四郎は、明治九年に京都へ旅行しましたが、その時、かの地で行われていた石灰事業を視察してその有望なのに着目し、翌十年には京都から石灰技術家の伊佐保五郎を招いて、赤沢の石灰山で石灰製造を始めました。そして、肥料用として販売しましたが、それを使用した田畑の作柄がよかったため、しだに利用者も増えるようになりました。とはいっても、当時の農家にとっては、金肥代を一時に支払うことはなかなか容易なことではありませんでした。そこで、勘四郎はこれを容易にするために、石灰購買組合というべきものを設立しました。すなわち、自分は耕地二町歩を組合に出資して生産を不履行にした際の補償に当て、組合員からは毎月二十五銭ずつの掛金を出させて、石灰を必要とする時はいつでも掛金の倍額まで供給するという方法をとったのです。これによって消費者は一時的に代金を支払う必要がなくなったあため、需要は一時に代金を支払う必要がなくなったため、需要も急に増加するようになりました。また、品質の向上にも努めて、明治十三年の全国勧業博覧会では三等賞、同十七年の岩手県勧業博では褒状を受けています。
明治三十五年一月十日、六十七歳でなくなられました。
−−−佐藤 正雄(故人)−−−

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