ふるさと物語 129 『産業を振興する人々-細川久-』近代人物脈(14)/紫波町

「ふるさと物語」【129】〈昭和50年4月10日発行「広報しわ」(第237)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

『産業を振興する人々−細川久−』近代人物脈(14)

細川久が山王海溜池国営化の政治工作と本格的に取り組んだのは、彼が県会議員に当選した翌年すなわち昭和三年からでした。
まず、この年には、田子一民代議士の紹介で三土大蔵大臣と望月内務大臣に陳情しましたところ、両者とも考慮することを約束してくれました。そのため、これに力を得た細川は、同年の末には耕地整理組合の設立発起人会を開くまでにこぎつけました。
あけて昭和四年には、農林省の技師一行が来村して溜池予定地の本格的な調査が始まりました。そして、山王海の山峡には、「国営山王海溜池予定地」の標ぐいが立てられて関係者の顔をほころばせてくれました。
ところが、意外にも事態は急変いたしました。同年七月には、彼の属する政友会の田中内閣が倒れて、反対党の民政党が政権を担当するようになったからです。このため、山王海溜池のこともご破算になって、秋には技師たちも村を去っていきました。
これからの二年余は、細川にとって正に雌伏の時でしたが、しかし、昭和六年の十二月になると、政権は再び政友会の手にもどって犬養内閣の誕生をみるようになりました。すでに県議に再選されていた彼は、これを好機として再び猛烈な運動を開始しましたが、その結果、翌七年には、工事費の予算化がほぼ確実になりました。
ところが、ここにもまた、伏兵が待ちかまえていました。山王海部落を始め高水寺堰や野沢堰関係者の反対工作がそれであります。山王海部落の場合は、先祖伝来の地を水没させることに対する反対であったし、高水寺・野沢両堰関係の場合は経費負担に対する抵抗とダム欠壊への不安が主たる理由でした。そして、この反対工作のため、追加予算に計上を予定されていた二百五十万円は、他にまわされる結果となったのです。
こうして、二度までも無念の涙をのんだ細川は、その後も政府に対して予算の計上を強くはたらきかけました。しかし、ついにその実現をみないまま、昭和十三年五月、五十五歳をもってこの世を去られました。墓は片寄の願円寺にあります。
−−−佐藤 正雄(故人)−−−

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