ふるさと物語 133 『産業を振興する人々-細川大弐-』近代人物脈(18)/紫波町

「ふるさと物語」【133】〈昭和50年8月10日発行「広報しわ」(第241)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

『産業を振興する人々−細川大弐−』近代人物脈(18)

細川大弐は、農業技術指導者として、直接産業振興に尽力されただけではなく、農村指導の影の立役者として、隠然たる影響力をもつ特異な存在でもありました。
その大弐は、明治二十九年、亀蔵の二男として盛岡に生まれました。初め軍人を志して仙台幼年学校に入学しましたが、無断外出がたたって退校となったため、後に盛岡農学校養蚕科に入学して、大正三年に同校を卒業しました。
大正十二年には、紫波郡技手として、日詰町の郡役所に勤務するようになりました。また、郡役所の廃止後は、紫波郡農会技手に発令されましたが、これがきっかけとなって日詰町に定住をみるようになりました。
彼が着任したころの本部では、養蚕が農家の副業の首位を占めていましたが、先進地に比較すると技術面での立ち遅れは否定できませんでした。そこで、彼は、稚蚕の共同飼育を奨励すると共に、条桑育や改良まぶしの普及にも努め、クワの栽培指導にも当たるなど、技術改善のために活躍して、その振興に大きく寄写されました。
また、昭和の初年になると、米価の変動が激しくなって、農家経済に不安をもたらすようになりましたが、これを克服するための方策として、彼は、郡下の米を一か所に集荷して入札に付する方法を提唱しました。そして、地元米商の反対を押し切りながら、日詰町の西裏に米の共同受検場を設置することに成功しました。次いで、彼は、青果物の共同販売にも着目して日詰町に共同市場を開設することを提唱し、自ら関係当局との接渉に当たるなどして、ついに、商工省の助成を得てその実現をみるにいたりましたが、これによって郡産のリンゴやキンカなどは、東京から北海道方面にまで販路を拡張するようになりました。
また、終戦後は、県の生産連や指導連に奉職され、指導連においては指導部長あるいは参事として、戦後の混乱した農村再建のために全力を傾注されました。
彼は、志士的な風格と豪放らい落な性格の持ち主であり、同輩と酒席を共にして放談することを好みましたが、その先見の明のある卓見は、農村振興の指針として多くの人々の共鳴を呼び、あたかも細川学校の感さえありました。
昭和三十一年没。行年五十九歳。
−−−佐藤 正雄(故人)−−−

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