ふるさと物語 138 『別録 よみがえる遺跡-柳田舘跡(片寄)-』/紫波町

「ふるさと物語」【138】〈昭和51年1月10日発行「広報しわ」(第246)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。また、 掲載記事の無断転載を固く禁じます。

『別録 よみがえる遺跡-柳田舘跡(片寄)-』

ここで柳田舘というのは、地元の人々によって「吉兵衛舘」と呼ばれているものでありますが、中野氏系図によると、かつては「今崎城」と称したもののようです。
この城は、東西約四〇〇M、南北約三〇〇Mの規模をもつものであり、その周囲には二重ないし三重の空堀をめぐらし、さらに中央には外堀を走らせるという設計のものであります。そして、この内堀を境として西側の内郭(本丸のある部分)と東側の外郭に分けられますが、そのうち、外郭の部分が高速道路の用地となるところから発掘調査が実施されました。
ところで、この調査に当たって特に関心のもたれたのは、この城はふだんも城兵の住んでいた城なのか、それとも敵に攻められた時にだけ立てこもる城(詰の城)なのか、という点にありました。なぜかというと、この種の城は、型式上は平山城と呼ばれるものでありますが、これまでの学者のなかには、中世の平山城の大部分は「詰の城」であったとする説をとなえる者があったからであります。ところが、調査の結果、この遺跡からは、十三棟の建物跡が検出された外、炭化米・アズキ・ムギなどの穀類を初め多数の陶磁器破片や古銭及び石臼・手水鉢(ちょうずばち)・硯(すずり)・砥(と)石などの石製品も出土して、どちらかというと、住居性のにおいが強く感じられてなりません。つまり、常に城兵が住んでいた可能性が濃厚だということであります。
また、今度の調査での大きな収穫は、この城は何回かにわたって改修されていることが確認されたことであります。これまでのところ、この城について知られることは、天正の末年ごろ、南部氏の重臣中野康実の居城であったということだけですが、それも天正十九年にはすでに破却されたことになっていますから、その存続期間はわずか二年余ということになりましょう。とすると、これだけの短期間に何度も改修されたことはまず考えられないから、この城は、中野氏以前からすでに存在していた可能性が強くなって参ります。それでは、誰の居城であったのか。これについては、今のところ不明という外はありません。今後の研究に期待されるところです。


---佐藤 正雄(故人)---

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