ふるさと物語 148 『産業を振興する人々 -藤原徳次郎-』 近代人物脈 (27)/紫波町

「ふるさと物語」【148】〈昭和51年11月10日発行「広報しわ」(第254)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。また、 掲載記事の無断転載を固く禁じます。

『産業を振興する人々 -藤原徳次郎-』 近代人物脈 (27)

藤原徳次郎は、植林事業の面で大きな足跡を残された方です。
その徳次郎は、明治十一年十二月、下松本の下二合家に生まれましたが、後に分家して一家を創立しました。
彼が壮年期を迎えた明治四十年代は、本県の森林行政が大幅に強化された時期でした。その最たる例は、明治四十一年に策定された県有模範林の造成計画ですが、これは、皇太子殿下の行啓を記念して、二十五ヵ年間に一万三千町歩の山林へ植林しようというものでした。また、一方においては、植林奨励金支給規則や公有林造成奨励規則を制定して積極的に造林の奨励を行っています。
この一連の施策に伴って、森林用苗木の需要が急速に高まってきましたが、これに着目した徳次郎は、さっそく苗圃の経営に乗り出しました。明治四十五年のことでした。最初は、栃木県からスギ・アカマツ・カラマツなどの幼苗を取り寄せて育苗しておりましたが、おいおいと自分でも繁植をするようになり、面積も一町歩近くまで拡張するようになりました。
ところで、徳次郎は、苗木の販路開拓のために、下閉伊方面に出向く機会がしばしばありましたが、かの地にいって強く目に映じたのは、造林をしないままで遊ばせて置く山地の多いことでした。そこで彼は、この裸山を借り受けて、分収造林をすることを企てました。そして昭和二年から同十九年に、至るまでの間に、普代・田野畑・川井・大槌などの各地にわたって、約百四十町歩の植林を行いました。その八十パーセントはスギで、残りはアカマツとカラマツになっています。分収歩合は、地主四、植林者六の割合でした。この植林地のうち川井の三町歩を水分中学校の学校林として寄付しておられます。また、この外、自己所有の山林二十四町歩にも植林するなど、その半生をあげて造林事業のために熱中されました。
昭和二十四年には、その実績が認められて、林野庁長官から植林功労者として表彰されています。
昭和三十三年三月、八十歳の高齢をもって他界されました。

---佐藤 正雄(故人)---

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