ふるさと物語 150 『産業を振興する人々 -岩崎初太郎-』 近代人物脈 (29)/紫波町

「ふるさと物語」【150】〈昭和52年1月10日発行「広報しわ」(第256)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。また、 掲載記事の無断転載を固く禁じます。

『産業を振興する人々 -岩崎初太郎-』 近代人物脈 (29)

佐比内は古くから金の産地として有名な所ですが、昭和年代になって、この地の金山開発に尽力された人に岩崎初太郎があります。
その初太郎は、明治四十二年三月、和賀郡横川目村の水沢鉱山で生まれましたが、父の弥八は水沢鉱山に勤務していましたし、母の実家も秋田県で金山を経営していた関係から初太郎も長ずると鉱山経営を志ざすようになりました。
最初、乙部村の大萱生で探鉱を始めましたが、その結果、有望な金鉱脈を発見したので、第二大萱生金山を設立してその経営に当たりました。しかし、間もなくこれを住友鉱業に売却して佐比内に移り、この地の人となりました。
佐比内では、小判山金山・佐比内金山・砥ヶ崎金山・朝日金山の四金山を設立し、地元から六十人ほどの従業員を採用して採鉱に当たりましたが、これは地元にとっても益するところが少なくありませんでした。採掘は昼夜三交代で行われましたが、昼番は午前八時から午後三時半までの勤務でしたから、農家の人々はその前後の時間で自分の家のしごとができたのです。そのため、現金収入の少ない地元の人々からは、またと得がたい職場として好評がありました。
初めは採掘した金鉱を住友鉱業に売却していましたが、やがて経営が軌道に乗るようになると、今度は精錬所を建設して自ら精錬を行うようになりました。しかし、太平洋戦争が激しさを増してくると、金は軍需品でないということから、その採掘を停止されてしまいました。これは、同時に、佐比内における産金の終末でもあり、再び日の目をみる時はありませんでした。
そのころ、彼は、二戸と釜石の白浜に有望なマンガンの鉱脈を発見しましたが、その採鉱に着手しようとした直前に応召となったため、やむなく似鳥吉次の手に渡してしまいました。
初太郎は、この外、鶯宿に銅山を開き、片寄の願円寺付近や彦部では亜炭の採掘にも当たるなど、手広く活躍されましたが、その無理がたたってか病魔におかされる身となり、昭和四十四年五月、ついに他界されました。

---佐藤 正雄(故人)---

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