ふるさと物語 152 『産業を振興する人々』 近代人物脈(31)/紫波町

「ふるさと物語」【152】〈昭和52年3月10日発行「広報しわ」(第258)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。また、 掲載記事の無断転載を固く禁じます。

『産業を振興する人々』 近代人物脈 (31)

22、谷地久吉
小屋敷の人。明治八年生まれ。他にさきがけて新しい農機具を導入された方です。すなわち、大正三年には、大正博覧会に出品されていた洋スキの優秀なのに注目し、率先してこれを導入しています。また、その後も、ミノル式足踏脱穀機・手回し脱穀機・機械まんがなどを試験的に導入し、効率がよければ他にも奨励して普及に努められました。この外、大正末期には、自から水分神社前の七分一堰の改修を企画し、全長約二kmにわたって護岸工事を実施しましたが、これに際しては、この地方では最初のコンクリート工法を採用するという一面もありました。昭和二十六年、七十六歳で没。

23、生内勘之助
升沢の人。明治十二年生まれ。本町西部地区におけるリンゴ栽培の先達として精励された人です。そのそもそもは、現役兵として青森第五連隊にあったころ、かの地のリンゴ栽培をみてその将来性に着目し、帰郷後、自宅の周辺に若干の植栽を試みたのが始まりでした。しかし、その直後、日露戦争の勃発とともに召集を受けて再び軍隊の人となったため、本格的に取り組むようになったのは、大正九年ごろからでした。約六反歩ほどの面積に、当時の代表的な品種であった紅さきがけ・祝・紅玉・国光を主体に植栽しましたが、それにナシ(長十郎・三吉・パートレット)の外にブドーとマルメロも加味しました。栽培技術は、主として盛岡農学校教諭小川和三郎の指導を受けたようです。志和・日詰・石鳥谷方面に販路を求めました。昭和初年になってこの地にもリンゴ栽培が普及するようになったのは、勘之助によって刺激されるところが大でした。昭和二十四年、七十歳で没。


24、竹原茂人
升沢の人。明治二十七年生まれ。コイの養殖事業に先べんをつけられた方です。その動機は明らかでありませんが、昭和七、八年ごろから、五郎沼・長尾沢堤・野沢堤・弁天堤などを借受けて大々的な養殖を実施されました。しかし、戦中になると、最大の肥料源であったサナギが入手できなくなったため、やむなく中止してしまいました。昭和二十五年、五十六歳で没。

---佐藤 正雄(故人)---

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