ふるさと物語 154 『産業を振興する人々』 近代人物脈 (33)/紫波町

「ふるさと物語」【154】〈昭和52年5月10日発行「広報しわ」(第260)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。また、 掲載記事の無断転載を固く禁じます。

『産業を振興する人々』 近代人物脈 (33)

28、東藤秀助
紫波郡にリンゴが栽培されるようになったのは明治十年代のことですが、その先駆者の一人に二日町新田の東藤秀助(安政三~大正一五)があります。
北上川ばたの河原に約十二町歩の果樹園を造成し、その半分にリンゴ(満紅)、残りの半分にナシ(早生赤・晩三吉・真鍮)を植えたのが始まりでした。リンゴ栽培では、おそらく現在の紫波町内では最初の人であったと思われます。
この果樹園経営にあたっては、資金調達や水害などの点で苦労が少なくなかったようですし、また、肥料用として八戸から身欠きニシンを大量に購入したところ、働きにくる人々がこっそり盗んでいくため、それに小便をかけてたべられないようにしたという逸話も残されています。
ところが、このリンゴ栽培は、残念にも失敗に終わってしまいました。モニリヤと綿虫の被害を受けて全滅状態に追いやられたからでした。この病虫害が本県に発生し始めたのは明治二十六、七年ごろからでしたが、その防除技術がまだ確立しておらなかったため、このような結果となったのです。ただし、ナシの方は成功をおさめて、遠く横浜方面にまでも出荷をみるほどでした。
この失敗の後、こんどは、リンゴの跡にクワを植えて養蚕と取組むようになりました。その規模は、専用の蚕室二棟をもって最盛期には百人近い人を使用するほどのものでしたが、マユの値上りもあって、大正九年まではきわめて順調に進みました。しかし、翌十年になると、にわかにマユ値が下落したところから、その後は、先行きに不安を感じて停止したままついに再開をみないでしまいました。


29、松坂勝之助 堀切礼八 高橋吉蔵
明治三十年代のころ、佐比内の高雄山麓に同地の松坂勝之助(弘化四~大正九)、堀切礼八(慶応二~昭和一三)、高橋吉蔵(明治四~昭和一六)と大迫の小川五郎の四人によって設立された製糸工場がありました。松坂賢三さんのお話しでは、十台ぐらいの糸繰機を備えて明治三十七、八年ごろまであったといわれますが、その他のことは知られていません。

---佐藤 正雄(故人)---

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