ふるさと物語 158 『文化を振興する人々-野村長一(胡堂)ー』 近代人物脈 (37)/紫波町

「ふるさと物語」【158】〈昭和52年9月10日発行「広報しわ」(第264)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。また、 掲載記事の無断転載を固く禁じます。

『文化を振興する人々-野村長一(胡堂)ー』 近代人物脈 (37)

銭形平次の生みの親として有名な野村胡堂は、本名を長一(おさかず)といって、明治十五年、大巻の長沢尻家の長男として生まれました。
少年のころは、無口に内気な子でしたが、しかし、読書力は抜群で、日詰高等小学校(四年制)に在学していた十一、二歳ごろには、父の所蔵していた水滸伝・里美八犬伝・前太平記・絵本太閤記などの歴史物を初め黒岩涙香の如夜叉までも読みこなすほどでした。
そのころのある日のことです。小学校の友だちと遊んでの帰り道でなにげなくくだんの本の話にふれたところ、子どもたちはたちまち興味をもって次から次へと話をせがんでくるのでした。それがきっかけとなって、それからは、時々、北上川の岸の林にふろしきのテントを張って、長一少年から物語を聞く集りがもたれるようになりました。それが、十人ばかりの小学校がいっせいに学校をさぼっての集りでしたから、いつの間にか学校側の知るところとなって、長一を初め一同は、さんざんにしかられる羽目となりました。
また、長一が十一歳の時に弟が生まれましたが、彼は涙香の如夜叉に出てくる耕次郎という人物に好感をもっていたところから、父に頼んで弟にもその名をつけてもらいました。読書に対する熱中ぶりの一面がうかがわれましょう。
当時、少年世界という月刊雑誌が発行されていました。長一は、父にせがんで東京の書店から直接送ってもらうことになりましたが、着本が予定より遅れるようなことがあると、二キロメートルもある北上川の船場まで郵便配達夫を迎えにいったといわれます。
こうして、長一少年の読書熱はいっそう高まっていきましたが、それが次第に軟文学の方向に進む傾向があったところから、これを心配した父親は、ある日、町から古本屋を呼んで、おも屋と土蔵にあった長一の読みそうな軟文学の本を全部売り払ってしまいました。長一は、二人の古本屋がそれを大ぶろしきに入れて背負っていくのをみて、泣きながらはだしで追いかけましたが、どうにもなりませんでした。(続く)

---佐藤 正雄(故人)---

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