ふるさと物語 160 『文化を振興する人々-野村長一(続き)ー』 近代人物脈 (39)/紫波町

「ふるさと物語」【160】〈昭和52年11月10日発行「広報しわ」(第267)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。また、 掲載記事の無断転載を固く禁じます。

『文化を振興する人々-野村長一(続き)ー』 近代人物脈 (39)

盛岡中学校を卒業した長一は、東京の第一高等学校を受験することになりましたが、ここでひとつのもめごとがおこりました。というのは、長一の志望は文科に進むことでしたが、当時彦部村の村長をしていた父の長四郎は、医科を受けるようにといって文科は許してくれませんでした。彦部に帰ってきて自分のそばで開業してほしい、というのが長四郎のせつない望みであったもののようです。しかし、長一はがんとして初心をまげませんでした。これより二人の間には、このことを巡っての争いが続きましたが、二年目になると、長四郎は、医科がいやならせめて法科を受けてくれ、と折れて出たので、長一は、やむなくそれに従うことになりました。そこで、さっそく上京した長一は、菊坂町の下宿にとじこもって受験勉強に専念しましたが、試験までの四ヵ月間は全く帯をとかなかったといわれます。そして、首尾よく一高の法科に入学できました。
長一の一高時代のエピソードとしてぜひ紹介しておきたいことは、彼の「東京研究」についてです。ただし、研究といっても、学術的なそれではなくて実際に東京の町々を見て歩くことでした。では何が目的かといいますと、彼が今まで読んできた江戸時代の軟文学を自分の目と耳で確かめようということにありました。当時の東京には、まだ江戸のなごりがありましたから、裏町から裏町へと歩き回りながら、硬軟両面にわたって見聞を深めることができました。これが、後に銭形平次やガラッ八を生みだす母体をなしたとみるべきでしょう。
また、ある時、長一は、軍事演習の小隊長を命ぜられて指揮をとっていましたが、そのさなかに、同級生が下級生Fに指揮刀で頭を切りつけられて五針もぬうという騒ぎがおこりました。そこで、小隊長としての責任を感じた長一は、さっそく学校側に対してFを処罰するようにと迫りましたが、これが柔道部の怒りをかうところとなって、寝室におしかけてきたこれらもさ連中のためにふくろだたきにされてしまいました。長一も、かなりのあばれん坊でけんかもしたようですが、それ以来、暴力とはプッツリ手をきったといわれます。

---佐藤 正雄(故人)---

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