ふるさと物語 161 『文化を振興する人々-野村長一(続き)ー』 近代人物脈 (40)/紫波町

「ふるさと物語」【161】〈昭和52年12月10日発行「広報しわ」(第269)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。また、 掲載記事の無断転載を固く禁じます。

『文化を振興する人々-野村長一(続き)ー』 近代人物脈 (40)

東京の第一高等学校を卒業した野村長一は、父のすすめに従って東京帝国大学の法学部仏教科(フランス法科)に進みました。とことが、その父の長四郎は、乙部村長在職中の明治四十三年八月に、突然、病気のためになくなってしまいました。そのため、これからは十一も年下の弟の耕次郎から仕送りを受けるかたちとなるわけですが、それではあまりにも気の毒だという気持ちも強く、それに、もともとは文科志望であったところから法科にはなじめなかったこともあって、この年、卒業を目前にして大学を退学してしまいました。これが、長一にとって、運命の転機になったとみてよいのでしょう。もし、順調に法科を卒業して官界にでもはいっていたら、後になって銭形平次は生まれてこなかったかも知れません。
大学を中退した長一は、好きな文筆で身を立てるには新聞記者が早道だと考えて、朝日新聞・中央新聞・毎日電報・それにある新聞社の合わせて四社に入社申込みを出したところ、それがいずれも採用されることに決まったのです。これには、長一も困ってしまいました。というのは、中央新聞社は原敬(後の総理大臣)の紹介社であったし、朝日新聞社のほうは知人の編集長が紹介してくれた関係で、他の二社はともかくとして、この二社だけはどちらも断わりがたい事情にあったからです。そこで、どうしたらよいものか、と考えながら有楽町の報知新聞社の前を通ると、同社の社会部の外交をしていた安村省三という人に会ったのでその話しをしたら、「それではいっそのことうちの新聞社にはいったらどうか」といって、さっそく村上編集長を紹介してくれました。そこで二階に上って編集長に会ったところが、「よかったらあすからきたまえ、しごとは政治部の外交だ」ということでした。今からみると、全くうそのような話しですが、いずれ、そのようなことで、結局は報知新聞社にはいることになりました。
長一は、さっそく翌日には和服姿にニュームの弁当箱をぶらさげて出社しましたが、最初に受け持たされたのは、政友会本部・逓信省・農務省・陸軍省の四ヵ所でした。

---佐藤 正雄(故人)---

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