ふるさと物語 165 『文化を振興する人々-巽聖歌(続き)ー』 近代人物脈 (44)/紫波町

「ふるさと物語」【165】〈昭和53年4月10日発行「広報しわ」(第273)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。また、 掲載記事の無断転載を固く禁じます。

『文化を振興する人々-巽聖歌(続き)ー』 近代人物脈 (44)

青年七蔵から巽聖歌へ

大正七年、横須賀に出奔した。平野直をたよって、出郷、海軍工敝に雇われながら、中学校の夜間部に通います。この年、時事新報社の雑誌「少年」に、童話「山羊と善兵衛さんの死」を発表、はじめて稿料をもらいました。これが縁で時事新報社に入社しましたが、このころから、方々の雑誌へ投稿をはじめて作品を発表し始めました。
大正十三年、徴兵検査のため時事新報社を辞して帰郷したが、検査は丙種合格でした。これから昭和二年までの日詰生活が七蔵の一生を決定します。岩手銀行日詰支店に世話する人があって勤めるかたわら、鈴木三重吉主宰の「赤い鳥」に、名作「水口」を投稿し、それが、北原白秋の激賞を受け、一躍世に名を知られるようになりました。日詰の協会で佐羽内牧師により洗礼を受け、筆名を巽聖歌としました。
昭和二年まで、「赤い鳥」につぎつぎと詩を発表し、すでに有名作家になっていましたが、この年、九州久留米の協会にアメリカ人の家庭教師として赴任、その途次北原白秋を東京に訪問して、激励されました。九州に行ってからは生涯の盟友、与田準一を知ることになり、この人と共に後に白秋門下の双璧と呼ばれることになります。翌年には与田準一とともに上京し、白秋の弟がやっている出版社「アルス」の入社試験を受け、百八十人の受験者の中から二人だけの合格者の中に入りました。

与田準一は、「赤い鳥」の編集部に入りました。同じ下宿でした。昭和五年、北原白秋門下の童話詩人たちで「乳樹」を与田準一と二人で創刊。多くの仲間たちと活躍しました。翌六年には、共に自分が勤めているアルスから、処女童謡集「雪と驢馬」を出しました。新美南吉が聖歌をたよって上京して来ます。
昭和七年、画家武居千春(長野県)と結婚、同居していた南吉と別居しました。
この頃が、青年聖歌らしく、最も純粋に作家活動をしたように思われますが、児童文化運動に仕事を拡大して行くことになり、昭和十五年には「新児童文化」の編集に乗り出し、仕事を拡大しました。 (続く)

---藤井 逸郎(故人)---

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