ふるさと物語 166 『文化を振興する人々-巽聖歌(続き)ー』 近代人物脈 (45)/紫波町

「ふるさと物語」【166】〈昭和53年5月10日発行「広報しわ」(第274)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。また、 掲載記事の無断転載を固く禁じます。

『文化を振興する人々-巽聖歌(続き)ー』 近代人物脈 (45)

壮年期から晩年へ
北原白秋創刊の歌誌「多麿」の幹部会員として朝日新聞の「新風十人」の中に加えられたりで、たいへんな仕事の量になりました。昭和十六年に出した童謡集「春の神さま」で第二回児童文化賞を受けます。「たきび」が放送され出したのがこの年でした。
昭和十七年には、「少年詩集」と童謡集「樫の木の村」を出します。翌十八年には満鉄から招かれて渡満したりします。仕事が絶頂でも悲しいことがつづきます。十八年には新美南吉死亡、前年十一月には白秋が世を去ります。

特に記録したいことは、昭和十五年六月、北原白秋夫妻を日詰に迎え、老母にも会わせ、かんから屋で小宴を張りました。貧乏で育った聖歌の故郷でのデモンストレーションだったとも思われます。その母も、昭和十七年に天寿を終えます。
戦争は東京においての文化活動を無理にしました。当時の文化人が皆そうであったように、聖歌一家は沼宮内に疏開しました。
ここで戦後となります。岩手児童文化協会の事務局長として敏腕を振るい、また文学運動として短歌と詩の雑誌「新樹」を創刊し、その主宰として、戦後の青少年を文学運動によって安定させようとしました。その口ぐせに「私に出きることは、白秋に教えられた文学を後輩に伝えることだけだ。」といいました。
昭和二十三年、一家をあげて東京に帰ります。再び中央での活躍がはじまりました。
文学運動は復興しました。主として児童文学の畑の仕事が多くなり、歌人としての聖歌はこの頃から目立たなくなります。日本作文の会の委員としての児童に詩を書かせる仕事は、逸年の大きな業績になりましょう。
昭和四十七年秋、志賀理和気神社の例祭にあたり帰郷したのが最後で、昭和四十八年四月二十四日東京日野市で六十九年の生涯を終え、八王寺市喜福寺に永遠の眠りにつきました。
児童文学界の高峰として、その真価は故郷の誇りでありましょう。いま、日詰では、聖歌の詩碑を建てようと、内々、話が進んでいるようです。

---藤井 逸郎(故人)---

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