ふるさと物語 168 『文化を振興する人々-菊池寿人(続)ー』 近代人物脈 (47)/紫波町

「ふるさと物語」【168】〈昭和53年7月10日発行「広報しわ」(第276)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。また、 掲載記事の無断転載を固く禁じます。

『文化を振興する人々-菊池寿人(続)ー』 近代人物脈 (47)

寿人が上京を志ざした直接の目的は、どこかの漢学塾に入門して漢学を学ぶことにありました。ところが、実際に上京してみますと、当時の東京は英語熱が旺盛をきわめて漢学を教えてくれる塾などは見当たりませんでした。そこで、小樽でおじの知人から紹介されてきた星享(自由党の実力者、後の衆議院議長)を尋ねて相談したところ、この人からも漢学のことは一笑に付されて、これからの世の中は英語をやらないでは世に立てるものではない、と説き聞かされました。そのため、結局は、その資金で神田淡路町の共立学校にはいって英語を学ぶことになりました。明治十六年正月(二十歳の時)のことでした。
この学校で二年半学んだ後、明治十八年の夏には東京大学の予備門(この年独立して文部省の直轄となり、翌十九年には第一高等中学校、明治二十七年には第一高等学校と改称された)に入学し、予科三年、本科二年を経て明治二十三年七月に同校を卒業しました。次いで、帝国大学文科大学(後の文学部)の国文学科に入学しましたが、当時、国文学科を志望する者はきわめて少なく、この年の本科生は寿人ひとりだけで、外に選科生が三、四人というありさまでした。(ここで帝国大学というのは、前の東京大学のことであり、明治三十年には東京帝国大学と改称された。現在の東京大学はその後身である)同校を卒業したのは、三十歳を迎えた明治二十六年九月のことでした。(別に明治三十年九月説があるが誤りであろう)
これからの寿人は、教育一筋の道を歩むことになります。その第一歩は陸軍教授としてでした。次いで、明治三十一年九月には母校である第一高等学校の国文学科主任教授に迎えられましたが、同四十二年には教頭に昇任され(校長は新渡戸稲造)、さらに大正八年九月には全校の衆望を一身に集めて校長に就任しました。ところが、翌九年の軽い脳溢血が原因で体が不自由になったため、同十三年九月にはやむなく退職することになりました。しかし、その後も非常講師として勤務されましたから、同校の在任は実に三十五年の長きにおよびました。 (続く)

---佐藤 正雄(故人)---

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