ふるさと物語 169 『文化を振興する人々-菊池寿人(続き)ー』 近代人物脈 (48)/紫波町

「ふるさと物語」【169】〈昭和53年8月10日発行「広報しわ」(第277)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。また、 掲載記事の無断転載を固く禁じます。

『文化を振興する人々-菊池寿人(続き)ー』 近代人物脈 (48)

学者としての寿人の宿望は、わが国の古典文学を研究することにありましたが、在職中の大半は教頭や校長の要職にあったところから、なかなかそれに没頭する余裕はありませんでした。しかし、それであっても、当時、万葉集の研究では第一人者として知られ、唯一の労作である『万葉集精考』(二巻)は今でも貴重な文献として高く評価されています。また、専門書とは別に『行々坊行脚記』なる紀行文集を残しておられます。寿人は、生まれつき病弱であったところから、自然と親しみながら体力をつけるため、各地の名勝旧跡を尋ねて旅行することを楽しみにしていました。この文集は、その折り折りの紀行文を門弟たちが懇請して刊行したものですが、専門の文学調にとらわれることなく、もっぱら叙情につとめてだれにもよくわかるように書かれているため、紀行文の一型を示すものと評されています。なお、この文集には、「夢の浮橋」という狂言風の戯作が付録されていますが、これを読むと、ユーモラスで四角張らない性格の半面がうかがわれます。その他では、自作歌集の『舒菊集』が知られています。
寿人が教頭・校長の職にあった明治末年から大正にかけての一高教育は実にすばらしいもので、同校の八十年史はこれを「一高の黄金時代」と呼んでいます。このことは、当時の修業生の中から若槻礼次郎・広田弘毅・近衛文麿・芦田均・鳩山一郎・岸信介・福田赳夫と七人もの総理大臣を輩出していることからもうかがい知ることができます。その意味でも、寿人は、わが国教育界における第一級の教育者であったということができましょう。一高八十年史は、その寿人を評して「先生の校長振りを遠くから見ていると、東北人のねばり強さ、気の長さに驚かれるが、日本で最初の平民宰相原敬や、海軍軍人となったために苦悩された米内光政と郷土を同じくする点でも、三者共通のものがある」と記しています。
一生独身でとおされたため、嗣子がないまま、昭和十七年、七十八歳でなくなられました。県立図書館に「菊池寿人文庫」が残されています。

---佐藤 正雄(故人)---

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