ふるさと物語 173 『文化を振興する人々-須川長之助(続き)ー』 近代人物脈 (52)/紫波町

「ふるさと物語」【173】〈昭和53年12月10日発行「広報しわ」(第281)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。また、 掲載記事の無断転載を固く禁じます。

『文化を振興する人々-須川長之助(続き)ー』 近代人物脈 (52)

マキシモービチが函館に渡来した当時のわが国では、外国人は居留置の十里(40km)以外に出ることは禁止されていました。そのため、目的の植物調査が思うにまかせず困りはてていましたが、このような時に長之助の現われたのは、あるいは天の引き会わせであったのかも知れません。その誠実さに着目したマキシモービチは、長之助を助手として禁足地の植物採集に当たらせることを考えたのです。そして、さっそく採集法の手ほどきに着手しましたが、その記念すべき最初の採集地は、函館郊外の杉山(函館山の一部)でした。
マキシモービチは、温情深い人でしたが、いざ研究とか採集のことになるときわめて厳格な一面をもっていて、長之助が指示された植物をとりもらしてくると、それを採集してくるまでなんべんでも命じるというぐあいでした。しかし、長之助は、どこまでも忠実そのもので、いろいろとくふうをこらしながら熱心に努力しました。そのため、採集の腕前はめきめきと上達して、間もなく一種類について二、三十点から珍しいものは四十点ぐらいまでも採集するようになりました。
こうして採集技術の基礎を身につけた長之助は、初めは函館周辺の採集に当たっていましたが、文久二年から同三年にかけては、マキシモービチに従って横浜・長崎と転居しながらその方面での採集に従事しています。すなわち、横浜滞在中は富士・箱根を中心とし、長崎では雲仙岳・阿蘇山・英彦山・九重山・霧島山など広い範囲にわたって行われています。
翌元治元年二月、マキシモービチは、その後の採集を長之助に託して帰国されました。したがって、長之助がマキシモービチについて直接指導を受けたのは約三年間ということになります。
その帰国後も、マキシモービチの依頼に応じて採集が続けられましたが、これからこそが植物採集家としての真価が発揮される時期であり、その期間は明治二十三年までの二十数年に及んでいますし、足跡もほとんど全国にわたっています。なお、この間に、日詰出身の菱川周作と斎藤松太郎が長之助の書記として同道しています。

---佐藤 正雄(故人)---

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