ふるさと物語 177『文化を振興する人々-岩動孝久(露子)・岩動康治(炎天)ー』 近代人物脈 (56)/紫波町

「ふるさと物語」【177】〈昭和54年4月10日発行「広報しわ」(第285)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。また、 掲載記事の無断転載を固く禁じます。

『文化を振興する人々-岩動孝久(露子)・岩動康治(炎天)ー』 近代人物脈 (56)

岩動孝久と岩動康治(両人とも明治十六年九月生まれ)は、ともに北日詰の出身。正岡子規の流れをくむ俳人として、新俳句の面で大きな足跡を残された方々です。孝久は俳号を露子(初め露葉)といい、康治は炎天と称しました。
孝久の父正雄と康治の母ノフは兄と妹の間柄で、ふたりはいとこ同志でしたが、康治は十五歳の時に正雄の養子となったため、それ以降は兄弟の関係で結ばれるようになりました。
孝久は明治三十年に盛岡中学校に進み、康治も二年遅れて同校に入学しました。ふたりが俳句と本格的に取り組むようになったのはその在学中のことでした。明治三十二年の秋ごろ、孝久は同志と組んで「杜陵吟社」を創立しましたが、康治も先に述べた野村長一(胡堂)とともにその同人となっています。翌年の夏休みには、孝久・康治・長一等の同人五名が、秋田・青森両県下を回って各地の俳人と運座(俳句の互選会)を行っています。これは、四十日にわたるもので、当時としては壮挙というべきものでした。また、同年からは、孝久と康治の下宿先(盛岡市仁王の原梅雄宅)で同人の句会も開かれています。
孝久は、その後、東京外語学校に進み、卒業後は陸軍幼年学校教官に就任しましたが、病気のためこれを辞して帰郷し、大正七年、三十五歳で没しました。その作品は、『春夏秋冬』と『続春夏秋冬』に収められているほか「露子句稿」(未刊)があります。
一方、康治は、京都府立医学専門学校を卒業して医師となり、新潟を経て大正末期には紫波郡煙山村で開業しましたが、これより本県の俳壇で活躍するところが大でした。すなわち、昭和三年から十余年間にわたって、『俳星』の主幹をなすとともに、岩手毎日新聞(昭和八年廃刊)の俳壇選者ともなり、あるいは「俳諧道場」を開設して後進の指導に当るなど、俳壇の振興に努めています。その後、北海道から埼玉へと転住し、昭和三十八年、同地でなくなられました。行年八十歳。句集に『片雲』があります。また、本町二日町の城山に「田村麻呂の城と北上と夏野かな」の句碑があります。

---佐藤 正雄(故人)---

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