ふるさと物語 178『医業にたずさわる人々(1)』 近代人物脈 (57)/紫波町

「ふるさと物語」【178】〈昭和54年5月10日発行「広報しわ」(第286)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。また、 掲載記事の無断転載を固く禁じます。

『医業にたずさわる人々(1)』 近代人物脈 (57)

現在の紫波町の地域は、江戸時代から他に比較して医者の多いところでした。その最大の要因として、この地内には郡山町(日詰町・上町・下町の総称)と上平沢村と佐比内村の三か村にわたって代官所のあったことがあげられます。といいますのは、この時代の制度として、代官所の所在地には藩の任命する「役医」と呼ぶ医者が配置されていたからです。その役医には、日詰町の室岡氏・内城氏・木村氏、下町の菊池氏上平沢村の渡辺氏、佐比内村の石杜氏がありました。このほか、一般の開業医としては、日詰町の渡辺氏・高橋氏、上平沢村の佐藤氏・岩泉氏、下土館村の渡辺氏、北片寄村の細川氏、星山村の小野氏、佐比内村の金田一氏、西長岡村の吉田氏などが知られています。
それでは近代になるとどうかといいますと、やはり最初はこれらの諸氏が主流をなしていました。まず江戸時代からの人をあげると、日詰町では木村昌安・木村玄昌・木村玄碩・木村玄良・内城良庵・渡辺寿堂・高橋善庵・高橋楊庵、二日町新田では菊池恵庵、上平沢では岩泉貞庵・渡辺昌伯、土館では渡辺文立、片寄では細川玄貞、星山では小野周庵・小野文碩佐比内では石杜周庵・石杜宗仙・金田一三友、西長岡では吉田玄仙などが就業していました。
木村昌安(文吾)は、大迫の中村家からはいって日詰木村家の七代目を継いだ人です。俳号を羊水と称してその道で有名でしたが、これについてはすでに第一七一回で述べておきました。明治四十二年没。
木村玄昌(玄庵)は、大巻村の八重樫治吉の二男でしたが、日詰木村家の五代目玄麟に任えて医学を修め、後に木村姓を許されて日詰町に独立しました。明治十九年没。木村玄碩はその長男。明治四十三年没。
木村良玄は、前掲玄麟の二男ですが、後に函館へ移住してかの地で開業しました。
内城良庵(東磨)は、同家の六代目。明治十七年没。
渡辺寿堂(本蔵・鶯郷)は、同家の四代目で、盛岡の儒医鈴木丈助について修業しました。明治三十九年没。

---佐藤 正雄(故人)---

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