ふるさと物語 179『医業にたずさわる人々(2)』 近代人物脈 (58)/紫波町

「ふるさと物語」【179】〈昭和54年6月10日発行「広報しわ」(第287)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。また、 掲載記事の無断転載を固く禁じます。

『医業にたずさわる人々(2)』 近代人物脈 (58)

高橋善庵(日詰)は同家の五代目で、楊庵はその子です。明治の初年に盛岡へ移住しました。
菊池恵庵(二日町新田)は同家の八代目。藩政時代には役医に任用されて一人扶持(玄米六表)を給与されています。明治十年没。
岩泉貞庵(上平沢)は八戸藩士岩泉佐兵衛の子です。八戸においてオランダ医学を学びましたが、父が志和代官所の下代(次長)を勤めた縁故から、上平沢村に一家を立てて開業するようになりました。没年は不詳。
渡辺昌伯(上平沢)は前に掲げた日詰の渡辺寿童の弟です。上平沢村に分家して、嘉永二年には志和代官所の役医に任用されました。明治六年没。
渡辺文立(土館)は同家の二代目。明治十二年没。父の立蔵は日詰渡辺氏の二代目芳庵の養子でしたが、下土館村に別家して医師を開業しました。
細川玄貞は北片寄村(明治六年に土館村に編入)の北田家の別家の人です。明治十三年没。
小野周庵(星山)は同家の二代目。明治十三年没。小野文碩はその子です。日詰の渡辺寿童について十ヵ年の間漢方医学を修業しています。明治三十四年没。
石杜周庵(佐比内)は佐比内代官所の役医であった石杜正円の二男です。芳沢に分家して役医の跡を相続しました。明治十二年没。その子の石杜宗仙は遠野の是川宗輔(五ヵ年)、盛岡の佐郷谷恕伯(一ヵ年)、仙台の鈴木玄庵、江戸の足立梅栄(二年九ヵ月)などについて西洋医学の内科と外科を学んだほか明治七年には盛岡の平塚重晴のもとで種痘術を修得しました。明治二十七年没。
金田一三友(佐比内)は遠野の西村立庵について三ヵ年間西洋医学の内科と外科を修業し文久二年から佐比内村で開業しました。明治八年には盛岡の平塚重晴について種痘術を学んでいます。明治二十一年没。
吉田良寿(西長岡)は家塾を経営するかたわら医業に従事していました。灸(きゅう)と鍼(はり)が主であったようです。明治五年没。その子の吉田玄仙もまた同様でした。明治七年没。

---佐藤 正雄(故人)---

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