ふるさと物語 186 『教育をする人々(3)』 近代人物脈 (65)/紫波町

「ふるさと物語」【186】〈昭和55年1月10日発行「広報しわ」(第294)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。また、 掲載記事の無断転載を固く禁じます。

『教育をする人々(3)』 近代人物脈 (65)

工藤円作(明治元~?)は赤沢の人。明治十九年に岩手尋常師範学校を卒業した後、赤沢・佐比内両小学校の訓導を勤めて同二十五年にいったん退職されましたが、三十二年には再び赤沢小学校の訓導に任ぜられ、翌三十三年から三十七年まで同校の校長の職にありました。そして、引続き代用教員を勤めていましたが、四十三年には退職して盛岡へ移住されました。
本間亀松(明治三~昭和三)は遠山の人。明治十九年に愛成小学校(星山小の前身)の助手に任用されたのを振出しとして、岩手郡の根田茂簡易小学校授業生と日戸簡易小学校訓導を奉職しましたが、この間に検定試験を受けて尋常小学校本科正教員の資格を取得いたしました。次いで、同三十三年には、北田小学校訓導から同校の校長に昇任されましたが、その在任期間は定かでありません。それから煙山・永井・大ヶ生・赤沢各小学校訓導を歴任し、遠山分教場の代用教員を最後として昭和二年に退職されました。
工藤惣吉(明治五~大正八)は星山の人。明治二十四年に星山小学校の授業生に任用されたのが教職の始まりでした。それより、検定試験によって教員資格を更新しながら、彦部・星山(再)・郡山・上平沢・長岡各小学校の准訓導ないし訓導を歴任し、大正三年に至って星山小学校長に登用されました。ただし、その在任は一か年の短期間に過ぎませんでした。翌年には赤沢小学校訓導に転じて、同六年に退職しています。
太田澄(明治六~昭和一六)は佐比内の人。明治二十六年に稗貫郡八重畑村滝田小学校雇に任用されましたが、同二十八年にはこれを辞して岩手尋常師範学校補習科(修業年限一年)に入学しました。そして、これを修了後は、片寄・佐比内両小学校の准訓導・訓導を経て、同三十三年には佐比内小学校長に昇任され、これより十二年間にわたってその職にありました。次いで、赤沢小学校訓導に転じましたが、間もなく校長に返り咲いて大正四年には星山小学校長、翌五年には北田小学校長に任命されました。同七年には再び赤沢小学校訓導となり、その後は佐比内小学校の代用教員を勤めて同十三年に退職されました。


---佐藤 正雄(故人)---

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