ふるさと物語 193 教育をする人々(10)』 近代人物脈 (72)/紫波町

「ふるさと物語」【193】〈昭和55年8月10日発行「広報しわ」(第301)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。また、 掲載記事の無断転載を固く禁じます。

『教育をする人々(10)』 近代人物脈 (72)

高橋朝雄(明治三七~昭和五二)は日詰の人(出身地は佐比内)。昭和四年に岩手県師範学校本科二部を卒業後、徳田・赤沢・上平沢・彦部各小学校訓導、佐比内・大ヶ生各国民学校訓導、長岡中学校教諭を勤務され、昭和二十三年からは亀ヶ森小・彦部小・佐比内中・星山小の各学校長を歴任して、同三十八年に退職されました。
北条久人(明治三八~昭和四八)は桜町の人。大正十四年に岩手県師範学校を卒業して上野(岩手)・日詰両小学校に奉職されましたが、昭和七年には東京市に出向してかの地の小学校で教べんをとられました。そのかたわら日本大学英文学部に学んでおられます(中退)。同二十一年には帰郷して松尾鉱山国民学校から志和中に転じ、翌二十二年に徳田小学校長に任用されました。次いで、志和中・赤沢中・紫波一中の各学校長に補せられ、同四十年に退職されました。
その後、町の教育委員に選任され、二期日には委員長の職にありましたが、惜しくも任期途中で他界されました。若いときには、走り高跳びの選手として名をならし(最高記録は1m75cm)、県代表として明治神宮大会(国体)に二度も出場しておられます。
下河原只行(明治三九~昭和四八)は北日詰の人。大正十四年に岩手県師範学校を卒業後、赤石・川口(岩手)・徳田の各小学校訓導を経て昭和十四年には永井小学校長に任命され、次いで葛巻・赤石両国民学校長に補せられましたが、同二十八年に至って岩手紫波教育事務所の社会教育主事に転じ、それより稗貫教育事務所長・花巻中学校長を歴任して、同四十一年に退職されました。その翌年からは、紫波町議会議員として活躍されましたが、不幸にも二期目を半ばにして病没されました。
菊池賢次(明治三九~昭和五四)は日詰の人。大正十四年に盛岡農学校を卒業して一時日詰町農会技手の職にありましたが、昭和四年から教育界の人となり、日詰小代用教員を振出しに土渕(岩手)・古館・片寄・日詰各青年学校教員を経て荒沢青年・篠木青年・水分中・赤沢中・赤沢小の各学校長を歴任し、同四十一年に退職されました。


---佐藤 正雄(故人)---

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