ふるさと物語 199 『俳句をたしなむ人々(4)』 近代人物脈 (78)/紫波町

「ふるさと物語」【199】〈昭和56年2月10日発行「広報しわ」(第307)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。また、 掲載記事の無断転載を固く禁じます。

『俳句をたしなむ人々(4)』 近代人物脈 (78)

平井せい(昭和一六没、六二歳)は、新田町の平井六右衛門夫人で、明治の末期より鎌田松華について俳句を学びましたが、ほかに和歌にもすぐれていました。俳号は秋香。
鎌田たか(昭和一七没、七三歳)は、仲町の鎌田呉服店の夫人で、紫波高等小学校の教師を勤めたこともある人です。俳句は木村半水の高弟で和歌の道にも達しており、半水の死亡後は代って後進の指導に当たりました。また、大正三年には、自ら「紅葉会」を創立して句集「母美智」を刊行してます。俳号は松華。
横沢文次郎(昭和一七没)は、新田町の若栄呉服店主。木村半水の門弟で楓山と号し、歩牛集にも関係しました。
藤田重次郎(昭和二三没、八〇歳)は、坂の上の人で長年小学校教員を勤められました。俳句は木村半水に学び、後には新聞への投句もさかんに行っています。句集「紅葉集」の編集に当たるほか、戦後は句会「檞会」を設立してその主幹となられました。また、郷土史の研究にも没頭して、貴重な草稿を残しておられます。 俳号は此山。
寺田賢治(明治一六年生まれ)は、彦部の出身ですが、後に日詰字新田町に移転して呉服店を営みました。俳句は明治三十五年から木村半水に学び、その没後は鎌田松華に師事しました。俳号は可冬。
横沢善次郎(明治一〇年生まれ)は、盛岡市の出身で横沢家の養子となった人。日詰信用組合の理事として三十年間勤続され、農林大臣の表彰を受けておられます。
幼少より絵画を好み、日本画会と日本画家美術協会に所属されました。俳句は木村半水に私淑し、俳号を竹亭と称しました。
渡辺ひさは、習町の渡辺正次郎の母堂。俳句と和歌を鎌田松華について習得しました。俳号は花江。
内城さい(明治一三年生まれ)は、鍛治町の医師内城隆徳の夫人。鎌田松華の門に学び、歌人としても有名でした。
横沢せつ(明治一四年生まれ)は、早くから戈媛の聞えが高く、俳句と和歌は鎌田松華門下の逸足でした。俳号は松箏。


---佐藤 正雄(故人)---

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