ふるさと物語 1 エゾとよばれた人々

1.エゾとよばれた人々

ふるさと物語は、先ず先輩との対面から始めることにしよう。
紫波町の人々が米を作るようになったのは、平安朝の始め頃(1160年程前)からであったろうと考えられている。従ってそれ以前の人々は、大方がご存じのように、自然の動物や植物を食糧とし縄文式とよばれる土器や石器を使って暮していた。これが歴史の上で、エゾとよばれる人々である。
このエゾについては、従来、アイヌだとする説が強かったが、最近では、彼等も同じ大和民族であるが、ただ文化の程度が低かったので、中央の人たちがケイベツしてエゾとよんだのだとする説が有力となってきている。いずれ、中央の日本人たちと比べて、風習もかなり異なり、文化の程度も低い人たちであったことだけは間違いなさそうだ。
日本書紀の中に「エゾたちは、冬は穴にねているし、夏は巣に住んでいる。」と書かれてあるのはその一端を示したものであろう。あたかも猿や熊と同じであったかのように受け取られるが、なんのことはない、文明をほこる現代の紫波町民族でさえ、最近まで、冬は「土むろ」をつくり、夏は「ヤグラ」を組んで、そこに寝とまりする風習があったのではないか。
エゾの子孫である証左であろう。
また「交ること父子の別なし。」ともあるから、セックスの面でもかなり自由?であったらしい。
このエゾたちは、狩猟民だけあって、闘争心はかなり旺盛であったようだ。宝亀7年の5月に「志和村の賊が反逆し、出羽の国に出撃して政府軍と戦った。」と歴史にあるが、この「志和村の賊」というのは、私たちの先輩のことであったろうと思われます。おそらく和賀川の谷間にそって出羽へ出たのであろう。
また少し時代が下って延歴11年頃になると、斯波(シハ)村の酋長に「胆沢公阿奴志包」という人物があったと思われるふしがあるが、その名前からみて胆沢郡との関係がうかがわれるので、この頃、紫波の地は少くとも胆沢から紫波にわたるエゾ勢力の中心地であったとも思われる。
それは同時に中央政府に対する抵抗の本拠であったことも意味するのである。
佐藤 正雄(故人)

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