ふるさと物語 171 『文化を振興する人々-木村文吾(半水)ー』 近代人物脈 (50)/紫波町

「ふるさと物語」【171】〈昭和53年10月10日発行「広報しわ」(第279)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。また、 掲載記事の無断転載を固く禁じます。

『文化を振興する人々-木村文吾(半水)ー』 近代人物脈 (50)

木村文吾は、俳人として大きな足跡を残された方で、明治時代の俳句界では東奥の巨匠とうたわれるほどに高名の人でしした。
その文吾は、天保二年(一八三一)に稗貫郡大迫村の医師中村文庵の三男として生まれましたが、嘉永の末に日詰町の医師木村昌甫の養子となって医師名を昌安と称しました。
幼いころから俳句を好んでおりましたが、木村家の人となってからも、時々江戸へ出て医学を学ぶかたわら俳句についても研さんを積まれましたから、ますます造詣が深まっていきました。若いころには俳号を雪庵といい、中年には晩翠と称しています。そして、五十歳の時には医業を長男にゆずり、半水(後に雪庵半水)と号して専らその道に精進されました。
明治二十三年には、半水の俳句が天覧の栄に浴すという快事がありました。すなわち、この年京都で陸軍大演習があった際、時の京都府知事は、陛下の旅情を慰めるために全国から募った俳句一万五千余句のうちから百句を選んで天覧に供しましたが、その百句の中に半水のものが二句も選ばれ(選者は花廼庵岱山)、しかも、そのうちの一句「たたずめば春風さむし隅田川」は、天地人賞の地賞に入選して大いに面目をほどこしています。これより、半水の名は広く知れわたるようになりました。
彼は、自作の句を手造りの句集としてまとめておられますが、その数は十数冊におよんでおり、各冊とも二、三千の句稿が細筆で書かれています。おそらく、これだけでも、合わせれば数万句はあるだろうと思われます。このように多くの句を残される一方では、鎌田松華・田村いつ・高橋白与・横沢楓山・畠山一葉・藤田此山らを初め多数の門弟をかかえてその指導にも熱情を傾けられました。そして、これらの門下を中心に自ら「紅葉句会」を主宰され、この地方における俳壇の基礎を築くと共にこれを隆盛へと導かれました。
明治四十二年十月、七十九歳の高齢で没し、日詰町勝源院に葬られました。その七年忌に当たり、門弟たちは、勝源院境内に「たたずめば・・・・・」の句碑を建立して、その功績をたたえています。

---佐藤 正雄(故人)---

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