ふるさと物語 159 『文化を振興する人々-野村長一(続き)ー』 近代人物脈 (38)/紫波町

「ふるさと物語」【159】〈昭和52年10月10日発行「広報しわ」(第266)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。また、 掲載記事の無断転載を固く禁じます。

『文化を振興する人々-野村長一(続き)ー』 近代人物脈 (38)

日詰高等小学校(四年制)を卒業した野村は、盛岡中学校に進学しましたが、同級には田子一民・金田一京助・及川古志郎・郷古潔らがおりました。また、中学校のかたわら四ツ家町にあった猪川静雄の塾にも通いました。
彼が中学四年の明治三十四年には、一級下の石川啄木らと共に、点のからい古参教師排斥のストライキをやって成功した話しは有名ですが、これは野村・石川ともに落第が必至であったので、ストライキ作戦に出て落第をのがれたのだという説があります。しかし、野村は、後年になって、その真相を次のように述べておられます。
-明治三十四年盛岡中学の大ストライキが起った。土地の先生方が、派閥をつくり、同盟して、遠来の若い先生方を追い出して困るというのである。後の一高校長になった瀬戸虎記も萬朝報の主筆になった斯波貞吉もその追い出された組だというのである。それでは若くて優秀な先生はいつまでたっても遠い盛岡までくるはずはない、英語の先生は何ヵ月も来ないし、数学の先生は一年近く欠員ではないか、というのである。私の下宿していた馬場小路の宿は、その参謀本部になり、冬のある朝五十人ばかりの中学生が、あまり遠くない校長の家に押しかけて、その善処を促したのである。首謀は宮川慶吉という豪傑な少年であったが、私もそのシリ馬に乗ったように思う。ストライキの法三章は父兄と新聞社を動かすなどで、絶対に同盟休校と試験回避を禁ずる、暴行暴力を禁ずるということであった。後に五年生になった私も、学校へはまじめに出て、試験は全部受けたはずである。石川啄木の率いる三年生もそのストライキに加わり、啄木は現に主謀者のように思われているが、三年生だった啄木は首謀者であるはずがない。ストライキをけしかけたS先生の宿へは一歩も近づかないのが、むしろわれわれのたしなみだったように思う。ストライキはずい分激しかったが、生徒から一人の犠牲者も出さず、十幾人の先生が同時に退職したのは、いんけんではあったが、生徒側の勝利であった。校風は変化して、新しい先生は東京から乗込んで来たーというのです。(続く)

---佐藤 正雄(故人)---

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