ふるさと物語 23 凶作と打ちこわし

広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

「ふるさと物語」【23】〈昭和39年11月5日発行「広報しわ」(第112号)〉

凶作と打ちこわし

藩政時代の米の生産力は極めて低く反当平均一石二斗程度に過ぎなかったが、これに加えて冷害による凶作が一層農民の生活を苦しいものとし、ついには多くの餓死者を出すに至った。
宝暦の凶作には米どころの紫波町でさえも二千人近い餓死者が出る程であり、一家全滅のため空家になる家が数十軒にも及ぶ程の惨状であった。
天保三年も凶作で六割の減収であったが、翌四年は春の冷気で苗代凶作となりついに九割の減収をみるに至った。当然のように餓死者は続出し、本町でも一ヶ月の内に一軒で四人の死者を出すところあった。子供を殺して食べたという話も伝えられている。一方では米の買占めを行う商人がでてきたため、普段なら一駄(二俵)で二貫七八〇文していた米価が六貫文以上にもね上がってしまった。もはや追いつめられた人々にとって生きる道は一つしかなかった。
ついに八月十四日には日詰に打ちこわしが勃発した。この時は商人達が救済米を与えたので間もなく静まったが、二十二日には再び大騒動となり、寅屋治郎兵衛、猪原屋七助、小桜屋権助、美濃屋与兵衛、野村屋又兵衛、いさば屋源治、久保田屋多治兵衛、福地屋作兵衛、小田屋源助、大工清吉、美濃屋善七、村谷屋伊八、いさば屋善助、二羽屋善助、高島屋善太郎、鍋屋作兵衛の十六軒が襲われた。
そこで日詰の豪商連中が相談の結果、窮民を救うこととなり、井筒屋権右ェ門は米四十俵、味噌三百貫、幾久屋七郎兵衛は米二十俵、銭百貫文、桜屋善助と高島屋善太郎は銭四十貫宛、その外有志から寄附金を集めて窮民一軒に対して米六升四合、銭五百十文、味噌九百八十匁を与えて三百七軒を救済している。
この時の凶作は天保九年まで続いたので、俗に七年凶作といわれているが、今あちこちの路傍に草むす餓死供養塔は、当時の苦難を伝えてせつせつと胸をうつものがある。
−−佐藤 正雄(故人)−−−

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