ふるさと物語 27 稲荷前の水げんか

広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

「ふるさと物語」【27】〈昭和40年5月5日発行「広報しわ」(第118号)〉

稲荷前の水げんか

志和稲荷前の水げんかといえば余りにも有名で、以前はこの地方の名物?とされていた。
記録に残るだけでも三百余年の間に三十六回を数え、そのうち数回は死者を出す程にすさまじいものであった。
山王海の奥から流れてくる滝名川は、志和稲荷社前で本流と支流の高水寺堰に二分されるが、旧志和村が八戸藩の領地となった寛文の頃には、滝名川本流が三分の一、高水寺堰が三分の二という水利慣行ができあがっていたから、既にそれ以前から用水が窮屈になったらしい。
一度日照が続いて川がかれると、いずれか一方の者が徒党を組んで相手方の取入口を堰止めてしまう。これが水げんかのきっかけである。急を聞いた両水系の農民達は続々と集ってくる。
本流側は白旗山、支流側は古稲荷山へ本陣を敷き、直ちに戦闘準備が進められる。やがて夜になると、本陣には赤々とかがり火がともされ、ほらの貝を吹き、ときの声を上げながら、夜を徹しての対陣となる。合戦は夜明けを期して行われるのが普通であった。東の空が明けそめる頃になると、両軍の主力がひしひしと分水点に接近する。忽ち川をはさんでの石合戦が始まる。やがて突撃隊が分水点めがけて突入すると、狭い川原は一瞬にして阿修羅の場と化し、追いつ追われつの肉弾戦が展開されるのである。
慶応元年の水論は、本流側二千人、支流側三千人の参加を見る大規模なものであったが、この際郡山の野村屋多治兵衛は鎌で脳を刺され、平沢の松蔵は頭部をとび口で乱打されて共に死亡している。松蔵は苦しさの余り助けを乞うたが、支流側の人達は、無情にも最後の水をのめといいながら、その顔に小便をしたという。この水論で平沢の藤右衛門、喜代治、桜町の千助の三人が召し捕られ、三年後にようやく釈放となった。盛岡領民であるのに、八戸側に加担したのが罪にとわれたのである。
山王海ダムの建設と共にどれも遠い過去の物語となった。
−−佐藤 正雄(故人)−−−

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