ふるさと物語 35 日詰史話(2)

「ふるさと物語」【35】〈昭和41年4月10日発行「広報しわ」(第129号)〉

広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

日詰史話(2)

幾久屋は刀鍛冶で有名な美濃の国(岐阜県)は関の出身。延宝の頃日詰へ移住して代々七郎兵衛を称した。初め美濃屋と号したが盛岡藩主が美濃守に任ぜられた時その名をはばかって幾久屋と改めた。御聖蹟のあたりに店を構えて呉服や醤油等の販売を業としたが、三代目から四代目にかけて急に大をなした。この頃藩では領内の豪商や豪農に対して多額の御用金を命じたが、同家では金一万四千両銭五千貫文近くを出している。財力の程が知られよう。
四代目七郎兵衛は別に多額の金を献じて三百石の士分に取立てられ金子を姓としたが、更に勘定奉行に登用されて藩の財政にも参画している。弘化三年には藩の命を受けて城山の東方に承慶橋を架設した。これは東西の交通に大きく益するところであったが十年後の洪水で流失した。
伊勢屋(当主平井洌氏)は伊勢の国は松阪の出身。日詰への移住は元和の頃(三四〇年程前)といわれる。同家は八戸藩の御蔵宿をつとめるかたわら薬の販売を業として財をなした。旧志和村は八戸藩の領地であったが、ここから上納された年貢米はこの蔵宿に運ばれ、ここから川舟に積んで江戸に送られた。同家ではこの廻送を一手に扱っていたのである。明治初年から酒屋に転じたが同三十六年には多額の私財を投じて北上川に木橋を架設した。紫波橋の前身ともいうべきもので世に平井橋と称した。
−−−佐藤 正雄(故人)−−−

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