ふるさと物語 42 長岡史話(1)

「ふるさと物語」【42】〈昭和41年11月10日発行「広報しわ」(第136)〉

広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

長岡史話(1)

四百年位前の長岡地区は、斯波氏の家臣である長岡八右衛門や江柄式部・栃内源蔵・草刈藤助等の支配するところであった。
中でも勢力の最たるものは長岡氏であり、長岡城を本拠として東西長岡・山屋・舟久保・砂子沢の五か村を領した。これが長岡郷と呼ばれるものである。長岡氏の祖は細川左京大夫高国といい、越後(新潟県)の長岡城からここに移って斯波氏に仕えたという説もあるが、その真疑は明らかでない。いずれ、斯波御所の重臣であったことだけは間違いなく、執権(家老)を勤めたともいわれる。斯波氏が南部氏に攻められて没落する際、最後まで八右衛門の援軍を期待していたが、その時、長岡城も江柄式部や栃内源蔵の攻撃をうけて、城を出ることができなかったという。八右衛門はその後南部氏に仕えて千石を給与されている。
江柄・栃内の両氏は、川村千鶴丸の後裔(こうえい)と伝えられる。千鶴丸は文治五年、源頼朝が平泉藤原氏を攻めた際、アツカシ山の戦功によって紫波郡の東部を賜わったといわれ大巻・佐比内・大萱生(おおがゆ)等の館主はみなその子孫だという。この地区は、元来水不足の地帯であったが、天王川の上流である山屋部落に開田が進むにつれて一層それが激しくなり、両者の間に争いが絶えなかった。山屋部落が分離したのも、実はこれが原因であった。このため東西長岡では、元禄四年、藩の許可を得て金山沢堰の開鑿(かいさく)を行っている。これは、梁川の上流を金山沢付近で堰き止めて、天王川へ導入するものであり、延長約二キロに及んだ。
ところがその後になっても山屋部落の開田が続き、長岡村の農民多数がおしかけて、その田を埋めてしまうという事件がおきている。
−−−佐藤 正雄(故人)−−−

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