ふるさと物語 47 『入会地でひと波乱』佐比内史話(2)

「ふるさと物語」【47】〈昭和42年6月10日発行「広報しわ」(第143)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

『入会地でひと波乱』佐比内史話(2)

南部藩によって治められていた頃、佐比内では馬の仔取りが盛んに行われていました。
雑穀の生産が多く、採草地にも恵まれていたから、馬を飼うにはとても好条件だったのです。また、広い山林を持っていることも一つの強みでした。佐比内の人々は、ここから薪をきり出して日詰や大迫に持って行きいろいろな生活物資と交換していました。つまり、水田収入の不足を産馬と山林収入によって補っていたのです。
ところで、ここに一つの問題点がありました。当時採草地や山林の多くは藩有地であったから、村ではその許可を得て共同で利用するという方法をとっていました。入会地とよばれるものです。ところが、藩ではこの入会山に植林を行って使用を禁止するようになったため、採草地や薪山が次第に不足を告げるようになってきたのです。
でも、佐比内はまだ恵まれている方で、山林原野の少ない彦部村の場合になると、問題は一層深刻になっていました。
このため、彦部の若者達は、佐比内の水上山に集団で押入って草を刈ったり、薪をとったりするようになりました。
勿論、佐比内の方でも黙ってみているわけがありません。双方とも負傷者を出す程の争いが、しばしば繰り返されました。
同じ佐比内でも下佐比内村の方は採草地や薪山に窮していました。このため、文化十三年(一八一六)には、上佐比内村に対して入会山を貸してくれるように交渉しましたが、なかなか応じてくれませんでした。
問題は藩の政治的解決の段階まで発展しました。強い反対に窮した藩では、やむなく年々二百貫文宛の補償費を出すことを条件として、ようやく納得させることができ、大日影山、同山の内本沢・石中沢山の三カ所を貸山にすることにきまりました。
---佐藤 正雄(故人)---

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