ふるさと物語 54 『大崎甚右衛門』江戸時代の人々(5)

「ふるさと物語」【54】〈昭和43年10月10日発行「広報しわ」(第159)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

『大崎甚右衛門』江戸時代の人々(5)

江戸時代も終りに近いころ、郡山在住の南部家臣に大崎甚右衛門という人物がありました。
大崎氏の初代が郡山町に移住してきたのは、元禄年間かその前後と推定されますが、甚右衛門はその六代目で二日町の下小路(走湯神社の南東)に屋敷をもっていました。
天保のころから日詰代官所に勤務して物書(書記)や下役(助役)を歴任しましたが、そのかたわら、新田開発事業などに大活躍しました。
これよりさき、盛岡藩は、財政が極度に窮乏して非常な危機に追いこまれていました。
そのため藩では、これを切りぬけるため、一方では増税を断行すると共に、他方では再三にわたって家臣の減俸を行いました。これによって、家臣の生活が大きく圧迫されたことはいうまでもありません。ただ、大崎家の場合は、武士としての俸禄の外に何か有力な収入源があったらしく、嘉永七年には、御用金として百両(米価換算で約260万円)を藩に献じている程ですから、経済的にはかなりゆとりがあったようです。それでも、禄高の減少は家格の低下を意味するものでしたから、これを挽回するために、自力で新田開発の事業をおこす決意をしました。
まず、弘化四年には、桜町から北日詰にかけての北上川ぼとりに約二町歩の新田を開きましたが、更にその管理施設として赤石神社の後から赤石船場まで新堰を通したり、同船場前と館川原に土手を築くなどしました。次いで嘉永五年から五ヵ年間に、大巻村で約五反歩、草刈村で約七反歩の新田を開発しました。その総高は約三十二石に達しましたが、これはそのまま大崎氏の知行地として公認されることになったのです。
また甚右衛門は、星山峠下の朝日田山に優秀な砥石材のあることに着目し、これを採掘して剃刀(みみそり)砥を製造する事業も行いました。
下級武士の多くが内職にたよったのに比べると、彼の積極性は高く評価されてよいのでしょう。
−−−佐藤 正雄(故人)−−−

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