ふるさと物語 67 日詰町の大火

「ふるさと物語」【67】〈昭和44年11月10日発行「広報しわ」(第172)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、紫波町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

日詰町の大火

日詰町の村谷屋伊八は、自分の手箱のふた裏に、同町で発生した大火の年月日や類焼軒数を書き残しています。同家では、安永六年に分家して以来六十年の間に四回も類焼していますから、その恐ろしさを子孫に伝えていましめようとしたのでしょう。
村谷屋が分家した翌年の安永七年四月二十八日には、同町二百七十軒ほどの内二百二十三軒が焼失するという大火がありました。記録に残るところでは、同町の火災史上最大のものでした。
ところが、その痛手がまだきえないうちに、翌八年四月三日にはまたもや大火の発生をみるところとなり、橋本から新田町にかけての一帯が全焼するといううき目をみるに至りました。
文政十年二月十四日には、坂の下の井筒屋惣右衛門方より出火して、橋本から大坪川岸までの百十七軒(一説に百三十軒)が全焼しました。火元は、惣右衛門家に寄食して寺子屋の師匠をしていた帷子清右衛門の居間でしたが、彼はこの責任を問われて日詰を追放となりました。
天保八年四月十日の晩には、村谷屋の向側番五郎方より出火し、その周辺九十二軒を類焼して翌朝鎮火しました。
消化技術の幼稚な時代でしたから、いったん火災が発生すると、大抵はこのような大火となる運命にあったのです。そのため、町の人々は火気の取扱いについては細心の注意をおこたりませんでした。たとえば同町の豪商井筒家権右衛門家では、使用人に対する掟書の中で「火の元に用心し、出火の際にはうろたえないように常時手配しておくこと、強風の時の夜番の者は油断なく見回りすること」と定めています。また、町の検断所でも、火消防世話人や水方世話人の組織をもって、消化体制の強化に努めました。
しかし、その後においても、明治三年には新田町の四十三軒、同五年には習町と仲町の七十七軒、同十一年には新田町の八十数軒、同十五年には新田町の二十軒、大正三年には鍛冶町の十二軒が焼失しています。
−−−佐藤 正雄(故人)−−−

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